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私の被爆ノート

みとられず逝った女性

2007年11月1日 掲載
江口 淳二(80) 江口 淳二さん(80) 爆心地から3.5キロの平戸小屋町で被爆 =諫早市飯盛町里=

当時十八歳。両親と兄の四人で五島町に住んでいた。平戸小屋町(現・丸尾町)の三菱電機長崎製作所に通い、探照灯(サーチライト)などの部品を作っていた。

あの日も朝八時から作業をしていた。突然、工場の窓から閃光(せんこう)が差し込み、次の瞬間、大きな爆発音とともに割れた無数の窓ガラスの破片が落ちてきた。とっさに身をかがめた後、構内に掘ってあった防空壕(ごう)に逃げ込んだ。

当時、会社には戦時中特別につくられていた救護隊があった。医師一人が隊長を務め、若手社員約十人が隊員だった。私も隊員の一人だったので、すぐさま負傷者を壕の中に収容して水を飲ませたり、治療の手伝いをした。全身の皮膚がただれた負傷者もおり、恐怖でまともに見ることができなかった。

翌朝、会社の男性従業員が、自分の妹という女性を背負って救護所になっていた壕の前に来た。女性の年齢は私と変わらないぐらい。山里小の一年生の担任をしていたらしい。背中一面の皮膚が焼けただれてぐったりしていたが意識はあった。男性はほかの家族の消息が分からないので探しに行くと言って、妹を心配しながら去っていった。

当時、患者を運ぶ担架は有り合わせの三本の角棒と太さ八ミリの針金だけを組み合わせて作ったもの。針金が食い込んでとても痛いはずだが、女性は我慢強く、一言も痛いとは言わなかった。救護所の仮設のベッドまで運び、寝かせた。

次の日、女性に下痢の症状が出始めたので、隊長から伝染病の恐れがあるから別の壕に移せと言われた。周りは焼却待ちの死体がいくつもある不気味な場所。女性をそこまで運んで出ようとしたときだった。「なぜここに移したのか。寂しいからそばにいてほしい」。女性が声を絞り出して訴えてきた。しかし、次々に運ばれてくる負傷者の手当てをしなければならない。胸が痛んだが、「また来るから」とだけ言い残してその場から立ち去った。

翌朝、壕の中に行ってみると、女性はすでに冷たくなっていた。暗闇で誰からもみとられることなく死んだ女性のことを思うと、今でも涙を禁じ得ない。焼却場まで遺体を運び、焼いた。それから二日後、女性を預けた従業員が戻ってきた。死んだことを知らせ、女性の遺骨を持ってきて手渡すと、遺骨を抱いたまま泣き崩れた。今でもその姿が忘れられない。
<私の願い>
核兵器が絶対に悪だというのはもちろんだが、投下される原因をつくった戦争自体も絶対に起こしてはならない。再び被爆者が出ないよう、体を張ってでも原爆阻止、戦争阻止を訴えていきたい。

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