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私の被爆ノート

死体であふれた浦上川

2007年10月25日 掲載
中島 正德(77) 中島 正德さん(77) 爆心地から3.5キロ離れた平戸小屋町(現・丸尾町)で被爆 =長崎市滑石1丁目=

当時十五歳。自宅は城山町一丁目(現・富士見町)で、親きょうだい七人で住んでいた。平戸小屋町(現・丸尾町)の三菱電機長崎製作所で探照灯(サーチライト)などの部品を作っていた。

あの日は朝から、空襲を避けるために掘られたトンネル工場内で作業をしていた。突然、照明が消え、真っ暗になったと思った後、ドーンと爆風が工場内を走った。気がつくと工作機械の脇に伏せていた。

トンネルの近くに爆弾が落ちたのかと思った。外に出てみるとガラスやスレートの破片でけがをした人がたくさんいた。重傷者を戸板に乗せ、工場の中に入れた。

昼すぎに帰宅の指示が出た。工場の対岸の県庁付近が燃えており、街の方が空襲に遭ったのかと思った。旭町桟橋まで行ったが、火の手が上がっており、稲佐山の方に迂回(うかい)し、淵神社の方に下った。山の中は、木がくすぶり、乳飲み子を抱えて裸同然で逃げて来た人など負傷者でいっぱいだった。

壊れた建物の破片、人や馬の死体で道が通れず梁川橋付近から、浦上川に入り城山を目指した。水はどす黒く、油が浮かんでいた。両岸から「助けて」と人を呼ぶ声が聞こえ、川べりは水を求める人、力尽き亡くなった人で、足の踏み場がないほどだった。

家の周りは城山国民学校の校舎以外は吹き飛んでおり、運動場には死体が転がっていた。自宅は全壊。長崎駅の日本通運に勤めていた父が先に帰っていたが、母と五歳の弟は、真っ黒になり亡くなっていた。父によると、弟は「こげんなってしもうた」と言いながら死んでいったという。

十三歳の妹と二歳の弟はつぶれた家の中から助け出したが、目も口も開かず、ただ生きているだけだった。九歳の妹は夕方帰ってきたが、おなかが痛いと苦しんでいた。

日が沈みかけたころ、周囲から木材を集めて、亡くなった母と弟の死体を荼毘(だび)に付した。抱えると肌は肉まで焼けており、ドロリとぬめっていた。

死体を多く見たため、悲しいというよりも「生きている自分が最後まで面倒見よう」という思いでいっぱいだった。あの惨状では肉親の死体が見つからなかった人も多かったと思う。

苦しんでいた三人の弟と妹も四、五日目の晩に亡くなった。
<私の願い>
世界には長崎・広島に落とされた原爆よりも威力がある核兵器が多数存在し、核保有国は減るどころか増える傾向にある。生きている間に全廃は不可能だろう。子や孫の世代に思いを託したい。

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