一九四四年夏、坂本町(現坂本一丁目)の自宅から、強制疎開のため姉婿の知人を頼り、母と二歳下の弟の三人で森山村(現諫早市森山町)の農村に疎開した。疎開先では、学校には行かず、農作業の手伝いをして日々過ごしていた。
四五年、あの日。当時十一歳。トンボを捕ろうと、一人で庭を駆け回っていた。すると、遠くの空で「ピカッ」と何かが光った。「何だろうな」と一瞬思ったが、大してして気にも留めず、トンボを追い続けた。
夕方、リヤカーを引きずり、ぞろぞろと歩いている行列を見た。不思議に思い、話を聞くと、「長崎では新型爆弾が落とされた」「全部燃え尽きてしまった」と口をそろえる。そのうち、長崎から父が避難してきた。「新型爆弾のために、長崎では多くの人が一瞬で死に、坂本の家も灰になった」と惨状を語った。
翌日、旧制中学校に通っていた兄が森山村に来た。坂本町の自宅で被爆したという。大きなけがはなかったが、放射能の影響だろうか、下痢が激しく、ほとんど無口。ご飯も一切、手をつけなかった。
稲佐町(当時)に住んでいた姉夫婦が、森山村まで逃げ延びてきたのも翌日のこと。二人は九日の朝から、時津村に買い物に出掛けていたため、けがはなかった。しかし、留守番をしていた三歳の息子は即死。姉夫婦は、息子の死体を皮のトランクに入れて持ってきていた。姉に「見てみるね」と言われたが、とてもトランクを開ける気にならなかった。
十三日、父と二人で自宅の後片付けをしようと汽車で長崎まで向かった。駅から降り立ち、辺りを見回すと、変わり果てた長崎の姿が目に飛び込んできた。異臭が漂い、一面焼け野原。焼けた瓦を踏み越えながら自宅のあった場所へ向かった。三日間、家の近くの山に掘られていた防空壕(ごう)で寝泊まりしながら、がれきの山を片付けた。
森山村に帰った翌日、布団の上で眠るように兄が息を引き取った。ぼうぜんとして涙も出なかった。父親の「代われるものなら代わってやりたい」との言葉が、今でも耳に残っている。
<私の願い>
何があろうとも絶対に戦争はしてはいけない。戦争は、人が人を殺す最も愚かしい行為だ。特に核兵器はまったく理不尽で、罪のない女性や子どもまでも無差別に殺してしまう。原爆投下が戦争を早く終わらせたという意見はアメリカ側の言い訳にすぎない。最近は、日本がまた戦争へ向かっているような風潮があり、危機感を感じる。平和の尊さを多くの子どもたちに語り継ぎたい。