平瀬次郎吉
平瀬次郎吉(76)
平瀬次郎吉さん(76) 爆心地から2.2キロの稲佐町1丁目(現曙町付近)で被爆 =長崎市上小島4丁目=

私の被爆ノート

薬なく手当てにオイル

2007年10月11日 掲載
平瀬次郎吉
平瀬次郎吉(76) 平瀬次郎吉さん(76) 爆心地から2.2キロの稲佐町1丁目(現曙町付近)で被爆 =長崎市上小島4丁目=

当時十四歳。現在の長崎市-西海市大瀬戸町-佐世保市を結ぶ九州商船の客船「第5大生丸」で、乗客の切符確認や客室清掃などをして働いていた。

原爆投下の四カ月前。当時働き場だった船が大波止で空爆に遭い、機関室の四人が死んだ。私は実家の現大瀬戸町に帰省中。地元の祭りに行きたかったので「ハハヤマイ、スグカエレ」とうその電報を友人に打ってもらい、偶然助かったのだ。

原爆投下時、第5大生丸は大波止に係留中。九州商船の客船「佐世保丸」も係留しており、私はその乗組員から船に積み込むみそなどの食料を近くの購買部に取りに行くよう頼まれた。

かごを背負い桟橋を渡っていた時だった。ピカーッ。光に包まれ何が起きたのか分からなかった。腹が膨れた馬車馬が一頭あおむけで死んでいたのが目に入った。

稲佐町(当時)に住んでいた私の叔父たち三人も、大瀬戸町から第5大生丸に乗って来ていた。三人は漁師だった私の父と同町でアワビやサザエを採り、家に持ち帰るつもりだったのだろう。

空にはきのこ雲が見えた。「きのこ雲が爆発する」という声が聞こえ、私と叔父たちは諏訪神社の防空壕(ごう)に避難。壕は人であふれていたので、近くに座り込んでいた。しばらくすると、空襲警報が解除された。太陽が妙に赤く「今度は太陽が爆発する」と誰かが言っていた。

私は半袖、半ズボンの制服姿。露出していた手足がやけどではれていた。勝山国民学校(当時)の救護所に行ったが、並んでいた男性の腕が何かで切ったのか、ちぎれ落ちそうになり、血がしたたり落ちていた。気分が悪くなり、学校を出た。叔父たちの家に行くと、瓦は少し飛ばされていたが、家族は無事だった。私は大波止で被爆したが証人がおらず、被爆者健康手帳では叔父宅での被爆となっている。

午後五時ごろ大波止に戻った。第5大生丸の乗組員は私の帰りを待っていたらしく「もう少しで土井首に避難しに行くところだった」と言われた。やけどした両手両足にエンジンに差す油を塗ってもらった。治療のため実家に戻ると、誰が効くと言ったのか、すったジャガイモや白いペンキを塗ってもらった。薬なんてなかった。
<私の願い>
核保有国はなかなか核兵器を手放さないだろう。核兵器廃絶は難しいと思うが、何としてもやり遂げなければならない。北朝鮮の核問題は、各国が北朝鮮の感情を害することなく、根気強く話し合って解決してほしい。

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