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私の被爆ノート

四つんばいで橋渡る

2007年10月4日 掲載
金田ハルヨ(77) 金田ハルヨさん(77) 爆心地から3キロの飽の浦町で被爆 =雲仙市吾妻町阿母名=

当時十四歳。吾妻町の山田尋常高等小学校を卒業後、親元を離れ、徴用先の長崎市飽の浦町の三菱長崎造船所倉庫課に、駒場町(現在の松山町)の寮から毎日通っていた。

海沿いにあった倉庫の外のごみ箱にごみを運んでいた時、ピカっと光り、大きな溝に逃げ込んだ。爆風で落ちてきた戸板が屋根代わりになり、その上にいろんな破片が落ちてきた。収まったところで防空壕(ごう)に避難すると、背中が焼けただれた人など、けが人が大勢いた。自分も顔と腕にやけどを負い、傷が真っ赤になっていた。寮で一緒に暮らしていた同郷の同級生四人の姿はなく、心細かった。

長崎に土地勘はなく、見知らぬ人たちの後に続いて稲佐橋を渡り、山手をぞろぞろ歩いた。途中、畑に倒れて死んでいる人や、布団に寝かされた三歳くらいの幼児の遺体が目に焼きついた。倒壊した家からは「水を飲ませてくれ」と声が聞こえたが、どうすることもできなかった。

浦上川の鉄橋を四つんばいになって、下を見ないように渡った。とにかく恐ろしかった。川の土手は死体だらけで、まるで地獄だった。

道の尾駅の手前に止まっていた救援列車に必死でよじ登った。「歩ける人は降りてくれ」の声に耳をふさぎ、諫早駅まで乗った。以前行ったことがある職業安定所の事務所の板の間に泊まることになったが、空腹で顔と腕の傷はヒリヒリ痛み、いろいろ考えて一睡もできなかった。朝一番の列車で吾妻町の実家に帰った。両親は「死んだと思っていた」と涙を流して喜んだ。

後になって造船所の同級生は無事だと分かったが、爆心地近くにいた寮長は爆死したという。近所の別の同級生は、やけどの傷にうじ虫がわいて亡くなった。私の顔のやけどはなかなか治らず、跡も残り、鏡を見ないようにした。

戦後は、父の農業を姉と一緒に手伝った。同級生の夫と結婚、三人の子どもに恵まれた。夫も被爆者で五十歳の時に膵臓(すいぞう)がんで他界した。主人の命日が来るたび、原爆の記憶もよみがえる。
(雲仙)

<私の願い>
原爆で苦しんで死んだ人たちが、かわいそうでならない。兄は戦争で左腕を奪われた。戦争は恐ろしい。絶対にしてはいけない。平和な国、世界を心から望む。

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