「狙われた!」-。家の近所で弟たちと遊んでいる最中、突然こだました原爆のさく裂音。それは自分たちに向けられた機銃掃射の音のように聞こえた。遊びながら「何か飛行機の飛びよるね」と思っていただけに、「撃たれて死んでしまう」と肝を冷やした。その瞬間、まるで台風のように吹き付ける強烈な爆風を浴びながら、命からがら家の裏に駆け込んだ。
当時十歳で西浦上小の五年生。三ツ山町に両親や兄弟たちと十人暮らし。あの日も、いつもとまったく変わりのない朝、そしていつもと変わらない夏休みの楽しい一日となるはずだった。
幸いにも家が高台にあったため、家族全員ほぼ無傷で済んだ。家屋も全壊は免れたが、かやぶき屋根の一部や木製の戸が吹き飛んでいた。激しく混乱する頭の中で、「訳の分からんもん」のすさまじさと恐ろしさだけが理解できた。
午後になり、畑仕事の手伝いなどで町に下りていた大人たちが帰って来た。「熱かったばい」「人が水ば欲しがっとった」と口々に話していたのを覚えている。警防団の一員としてけが人の救助に当たった父も戻って来た。父から聞いた話では、「逃げても逃げても太陽が追い掛けてくる」とつぶやいた人がいたそうだ。照り付ける太陽と、その下で無数の家が真っ赤に燃える惨状を想像した。
被爆してから十数日たったある日。カトリック信者の私はミサに参加するため、近所の教会に向かった。そこには頭に包帯を巻き、けが人の治療に当たる永井隆先生がいた。シスターの腕に刺さったガラス片を一つ一つ抜き取っていた。私を含め、子どもたちは先生の後ろをちょろちょろついて回った。永井先生の顔ははっきりと覚えていないが、懸命に患者を救おうとするあの背中は今でも目に焼きついている。
校舎が壊れ、近くの分校で迎えた二学期。次第に先生や数人の友人がいないことに気付き始めた。原爆で殺されたのだ。そして、被爆直後は無事だったすぐ下の弟も三十二歳の若さでこの世を去った。白血病だった。原因ははっきりと分からないが、当然原爆のせいだと思っている。
(東彼)
<私の願い>
世界に核兵器が残る限り、あの悲劇が繰り返される可能性はある。そんな可能性があることだけでも信じられない。各国の良心の問題と言えばそれまでだが、話し合いによる解決を心から願う。