長崎に向かうすし詰めの列車は長与と道ノ尾の途中あたりで止まった。ホームもない場所で乗客に押し出されるように飛び降り、がれきの山となった道を縦一列に並んで歩けという。あちらこちらで炎がくすぶり、防空ずきんをかぶっているのに恐ろしさで寒気がして震えが止まらない。ただ、列からはぐれないよう、前の人が履いていた軍靴だけを見て歩いた。
当時二十四歳で母と娘の三人暮らし。長崎市の北大浦国民学校で教師をしていたが、一九四五年四月に佐賀県に強制疎開した。あの日は朝から武雄国民学校の校庭で農作業をしていた。夕方、「新型爆弾で長崎が全滅した」との話を聞き、不安になって親せきや知人に電話したがつながらず、十一日朝から一人で長崎に向かった。
長崎の市街地は灰色の世界だった。死体が転がり、死臭が漂う。あてどなく、ただふらふらと歩く人々-。
馬町に着くとそこまでひどい光景ではなく、伊良林に住むおばの元へ急いだ。家はたんすがひっくり返り、ガラスが散乱していたが、おばは無事で再会を喜んだ。程なくして、北大浦国民学校の生徒、先生約五十人が学徒動員先の茂里町で爆死したと聞いた。
北大浦国民学校時代は自分も引率役として生徒を茂里町の工場によく連れて行った。あどけない顔で一生懸命機械を磨いた生徒たち。ひもじい思いをしながらよく頑張っていた。先生たちにもお世話になった。あの子もこの子も…。いろんな顔が頭の中を巡っていく。
そして、もし自分も強制疎開をしていなかったら-。胸が締め付けられた。
戦後は耐え難い日々だった。戦時中は「勝つまでは」の心で、どんな苦しみにも頑張れた。でも戦争に負け、日本人は自制心や義理人情を失ったと感じるようになった。闇米の値段は不当につり上げられ、友人は生きるために体を売った。戦争は、原爆は、人間を人間でなくしてしまうのだ。
母はビルマ(現ミャンマー)に行った兄の無事を毎日祈っていた。引き揚げ船が来ると波止場で「星野隊六七三五部隊の帯屋幸夫(兄の名)はいませんか」と声を張り上げた。思いは通じなかった。
終戦から三年後。一通の知らせには髪の毛一本、つめの一かけらも添えられていなかった。「名誉の戦死です」と言った配達人。私は「何が名誉の戦死ですか」と怒鳴った。
<私の願い>
戦争は兵隊だけが傷つき死んでいくのではない。後に残された人々の悲しみ、苦しみは耐え難いものです。二度と戦争をしないでもらいたい。