武山 和馬
武山 和馬(76)
武山 和馬さん(76)
爆心地から2.1キロの八千代町で被爆
=長崎市本尾町=

私の被爆ノート

傷口にうじ耐えられず

2007年9月13日 掲載
武山 和馬
武山 和馬(76) 武山 和馬さん(76)
爆心地から2.1キロの八千代町で被爆
=長崎市本尾町=

当時十四歳、学徒動員で国鉄の機関車に燃料の石炭を補給する仕事をしていた。「戦争に勝ってほしい」という気持ちが常にあったので、重労働も苦にならなかった。

八月九日、停車している機関車の中で作業をしていると、「落下傘が降りてきているぞ」という声が聞こえ、窓から首を出して外を見た。その途端に強烈な光を浴び、顔の左半分にやけどを負い、唇の左半分も上下くっついてしまった。身の危険を感じ機関車から降りると、今度は強烈な爆風が吹いてきて体が飛ばされた。

機関車に乗っていたためやけどはひどくなく、爆風で飛ばされた先が石炭の燃え残りを積んだ場所だったため、大けがはしなくて済んだ。だが、周囲では建物が崩れ、あちこちから「助けてくれ」という叫び声が聞こえた。

周囲のことを気にする余裕もなく、はだしのまま新興善国民学校の救護所に向かった。救護所にたどり着くと、すでに多くの人が救護を受けており、教室の床や校庭にもけが人が寝かされていた。治療を受け、職場の状況が気になって戻ることにした。

現在のNHK長崎放送局(西坂町)付近にあった防空壕(ごう)で一夜を明かし、翌朝職場に戻ると、同僚と一緒に西彼長与村(当時)にあった体育館のような施設に連れていかれ、また治療を受けるために寝かされた。

そこで過ごす間に終戦を知り、「戦争が終わって良かった」とほっとしたことを覚えている。自分の近くで寝ている人が次々と死んでいく様子や、傷口が化膿(かのう)してうじがわいたりすることに耐えられなくなり、十日ほどして帰宅を申し出た。

自宅に戻る途中、浦上地区を通ったが、辺り一面は原野のようになっていた。当時、銀屋町にあった自宅に帰ると、家族は全員無事で、再会を喜びあった。

戦争中は報道も日本軍の勝利ばかりを伝えていたため感じなかったが、原爆投下によって戦争が心から嫌になった。
<私の願い>
戦争では食糧が不足したりするだけでなく、民間人の命まで奪われてしまうことが許せない。各国のトップ同士で話し合いをし、解決することが一番いい方法ではないかと思う。 今の若い人たちは戦争を知らないが、平和な世界をつくるために頑張ってほしいと願っている。

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