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私の被爆ノート

末弟の死思うとふびん

2007年9月6日 掲載
松尾キヨ子(82) 松尾キヨ子さん(82) 爆心地から約2.8キロの長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)で被爆 =長崎市三ツ山町=

当時二十歳。今魚町(現魚の町)に父と母、姉と私、末の弟の家族五人で暮らしていた。二歳下の弟は陸軍の予備兵として牧島にいた。姉が立山防空壕(ごう)の通信所で働いていたので、広島に原子爆弾が落ちたことをいち早く知り、「恐ろしいね。敵機が来たら、とにかく防空壕に逃げよう」と家族で話していた。

八月九日。私は片淵町三丁目の長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)の体育館にあった三菱電機の疎開工場に出勤。父は造船所の作業服の縫製をするため稲佐の方に出掛けていった。海星中学に通っていた四歳下の末弟もいつもと同じように家を出て行った。

午前十一時を過ぎたころ、事務の作業中に突然、爆音と振動がして、机の下にかがみ込んだ。建物内がほこりだらけになり、爆心地と山一つ隔てた片淵でも、近くに爆弾が落ちたのかと思うほどの衝撃だった。

上司の命令で自宅に戻り、姉と母と一緒に諏訪神社にあった町内会の防空壕に、家財や貴重品をまとめて逃げたが、末弟と父の行方は分からなかった。

翌日、自宅に戻ったが県庁の方から火が燃え広がったらしく、全焼していた。焼け跡に無事を知らせる札を立て、父と末弟の帰りを待った。原爆投下から三日後、父は左目の下をガラスの破片で切っていたが、無事再会できた。

しかし、末弟は行方知れずで、牧島から戻った弟も加わり、姉と三人で、救護所を回り捜し歩いた。救護所にはやけどを負い、真っ黒になった人々が板の間に寝転び治療を待っていた。「水を水を」と、助けを求めていたが、どうすることもできなかった。

一週間後、新興善の救護所で、末弟の友人と会った。友人によると、坂本の山王神社付近の防空壕掘りに動員され、被爆したという。二人で井樋ノ口(現宝町)まで避難したが、「もう歩けないから、先に行ってくれ」と言われ、やむなくそばの防空壕に残してきたという。

早速、その防空壕に向かったが、壕の中で亡くなった人々は、まとめて火葬されたという。骨の山の中に「弟の骨がきっとある」と思い、骨を分けてもらった。独りぼっちで苦しみながら亡くなったと思うとふびんでならない。
<私の願い>
高校生平和大使など、若い人たちが平和を真剣に考えていることを頼もしく思う。彼らの訴えが実現する世界になってほしい。

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