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私の被爆ノート

ガラス刺さり歩く人々

2007年8月30日 掲載
山下 光雄(78) 山下光雄さん(78) 爆心地から約3.4キロの千馬町(現在の出島町)で被爆 =長崎市矢の平3丁目=

路面電車に乗ろうと、ステップに足を掛けた瞬間だった。ピカーッ。光に包まれ、逃げる間もなく爆風で吹き飛ばされた。気付くと、道端の背丈ほどの深さがある溝の中に転げ落ちていた。

当時十六歳。梅香崎地区にあった電報局でモールス通信の仕事をしていた。電報局は桜馬場地区に移転することになっていたので、ほかの職員五人と、電報の用紙や電池を千馬町から路面電車に乗って運ぶ矢先だった。

気付くと私は一人になっていた。中央橋の近くにあった防空壕(ごう)に向かう途中、木の電柱が一本立っていたが、その真ん中ほどの高さから燃えていた。「普通は下から燃え始めるのに、おかしい」。その日の朝、広島に新型爆弾が落とされた、という新聞記事を見ていたので、これもそうではないかと思った。

壕に着くと、県庁坂をぞろぞろと下ってくる人の群れが見えた。服が焼けて裸の人や、頭に大きなガラスが突き刺さったまま歩いている人がいた。ガラスが太陽の光をキラキラと反射していたので遠くからも分かった。気付くと、私も肩にガラスが刺さっていた。おばさんが壕の中で、カボチャの皮を傷口に塗ってくれた。薬なんてなかった。

本河内に住んでいた家族は全員無事。近くの日見トンネルは半分が兵器工場、半分が通路に仕切られていた。学徒動員で働いていた女の子たちは「どうしよう」と泣いていた。いつも歌を歌って陽気に帰っていたので、かわいそうだった。数日後、仕事で離れられない私を除いた家族全員は、北高飯盛町(当時)の農家に疎開した。

私は旭町の友人の家に下宿。電報局に入る前に通った逓信講習所(麹屋町)の同期の男友達と、その母、祖母、妹が住んでいた。爆風で飛ばされた瓦を取り付けて、ちゃんと住めるようにした。食料不足だったので、疎開先の飯盛町まで食料を歩いて取りに行き、下宿先に渡していた。

友人は被爆して三カ月後に髪が抜け始めた。「髪が抜けたら一週間もたない」と聞いていたので、居たたまれなくなり下宿を出た。電報局を辞め、家族がいる飯盛町に移った。友人は本当にそれから一週間後に死んだと、知人から聞いた。
<私の願い>
戦争をするから核兵器をつくることになる。人間が生きている以上、戦争のない世界の実現は難しいと思うが、国の指導者には何としても平和を守り続けてほしい。若い人には、自分が体験したことを語ってあげたい。

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