川上 釆一
川上 釆一(78)
川上 釆一さん(78)
当時の城山国民学校付近で入市被爆
=平戸市根獅子町=

私の被爆ノート

悲惨だった妊婦の遺体

2007年8月23日 掲載
川上 釆一
川上 釆一(78) 川上 釆一さん(78)
当時の城山国民学校付近で入市被爆
=平戸市根獅子町=

香焼島の川南造船所で見習工として働いていた。一万トンの貨物船を建造中で、八月九日は船内で作業をしていた。

暗い船内で漏電が起きたように一瞬、ピカッと光った。間もなく言うに言われんような音がした。

「ドゥドゥドゥー、バリバリバリー」

ものすごい爆音。島に爆弾が落ちたと思った。慌てて外に出ようとしたが、船のデッキの上はトタンや窓ガラスなどが飛んできていた。しばらくして二百-三百メートル離れたトンネルに逃げ込んだが、どうやってたどり着いたのか覚えていない。

島からは長崎上空に原爆雲が見えた。雲一つない青空の中、入道雲みたいににょきっと出ていた。

造船所のドックの上から長崎を見ると、大部分は山で隠れて見えなかったが、県庁付近で炎が見えた。その日の午後、長崎から島に戻った人に会った。その人は顔にやけどを負い、「長崎は全滅」と話していた。

十日、長崎に救援に出掛けた。家屋の下敷きになった人を救出しようとのこぎりを持参したが、爆心地付近の家は焼けてしまっていた。

城山国民学校付近でたくさんの遺体を見た。亡くなった人は目や鼻、口から黄色い油が出ていた。最も悲惨だったのは妊婦の遺体。焼けておなかが破れ、胎児の姿まで見えた。この光景は思い出したくない。防空壕(ごう)の中では「水、水、水…」と叫ぶ声が聞こえた。マスクの下に木の皮を入れて防臭し、けが人を担架で次から次に運んだ。この日は腹が減っても、とても食事を取れなかった。

香焼島には米国や英国などの捕虜が収容所に三千人いると言われていた。海軍兵は捕虜をいじめていた。熱くなった鉄板の上で腕立て伏せをさせたり、殴るけるしたりしていた。終戦になって報復を心配したが、海軍兵の姿はなかった。

私はある米国人捕虜と一緒に造船作業をしていた。彼は手鏡の裏に奥さんの写真を張り付けていた。捕虜生活が長いためか片言の日本語を話していた。ある時、彼は「戦争は米国が勝つ。勝ったら米国に帰ってまた長崎に戻って来て、川上さんに腹いっぱい飯を食わせる」と言ったことを印象的に覚えている。
(平戸)

<私の願い>
原爆はあってはならない。もちろん使われてはならない、いくら戦争になっても。原爆を使った戦争をしていては、人類はいなくなってしまう。戦争はしてはならない。

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