十一時二分。家野町にあった三菱兵器製作所の魚雷工場はパニックになった。
青白い光が走り、屋根と窓ガラスが吹き飛んだ。瞬く間に崩壊。魚雷のギアポンプの仕上げをしていた私は、爆風で飛んできた道具箱が体を覆い、軽いけがですんだ。鉄骨の下をくぐり外に出たが、近くの工場の塩酸の煙に巻き込まれた。死に物狂いで逃げた。
辺りは焼け野原。あるはずの家も消えている。人が泣き狂い、もだえる声だけが耳に残る。畑を通り江里町の自宅にたどり着いた。半壊だった。
近くの防空壕(ごう)に父がいた。父は顔をやけどして、出掛けた母、弟、二人の妹を心配していた。父は壕に残り、私は家族の名前を大声で呼び続けながら捜した。
近所の女の子が倒れた裏木戸に挟まれ叫んでいた。柱を取り除こうとすると火が回り、生きながらに炎にのみ込まれた。今でも忘れられない。
別の女の子のかすかな声がした。一番下の妹の千代子=当時(6つ)=が、家屋の下敷きになって泣いていた。すぐ助けたが右足がひざ下から折れ、ぶらぶら下がっていた。激しい痛みだったろう。
妹を父に預け、家族を捜した。すると防空壕から五百メートル離れた溝に裸で五、六人が死んでいた。その中にもう一人の妹、律子=当時(13)=がいた。母と弟を捜すため「ごめん」と先を急いだ。
両目がほおまで飛び出し、手探りで動き回る女性。家は燃え、煙やごみがもうもうと立ち込める。この生き地獄がどこまでも続く気がした。
結局その日、母も弟も見つけられなかった。
十日、臨時汽車が大橋まで来て、病人らを諫早などに運んでくれるという。千代子を抱き、待っていると顔色が次第に消え、唇が紫色に変わって息を引き取った。どうしようもなかった。
その日、諫早の女学校の体育館に父と親せきの子ども二人と身を寄せた。親せきの子の一人は十一日に死んだ。もう一人は十二日、「かーらす、なぜ鳴くの」と童謡を口ずさみながら死んだ。
父は日に日に弱った。十四日、諫早の病院へ移されたが三日後に死んだ。亡くなる直前「よく看病してくれた。病気しないように後を頼むぞ」と言ってくれた。涙が止まらなかった。
その後、長崎に戻り母と弟を捜した。見つからなかった。ずっとずっと、冥福を祈っている。
<私の願い>
あの地獄を体験した者として、今の人たちに同じことを繰り返させたくはない。核兵器廃絶を訴えていくのが自分たち被爆者の使命。命ある限り、機会のあるたびに語っていきたい。