一九四五年当時は十二歳で飽浦国民学校六年生。飽の浦町四丁目(当時)に両親と姉、弟二人と一緒に住んでいた。あのころは学校に登校した途端、警報が鳴って、家が近い子ども同士で連れ立って防空壕(ごう)に避難することも多かった。同年一月ごろからは、夜間の空襲に備えて夕食後は自宅近くの防空壕に毛布を持ち込んで寝ていた。
八月初旬ごろ長崎市内で空襲があったので、六日からいったん、母と弟二人と共に西彼長与村(当時)の親類の家に疎開したが、母は自宅の近辺はあまり空襲がないと考え、九日の午前中に戻った。午前十一時前には、近所の子どもたちと一緒に家の近くで遊んでいた。
飛行機の音がしたので浦上方面の空を眺めていると、落下傘が降りてきて開くのが見えた。その瞬間、爆音がして太陽が二つ出てきたのかと思うほどの強烈な光線と熱風を受けた。あまりの熱さに、とっさに近くの民家に逃げ込んだが、家の中から吹く爆風で外に押し戻された。
空襲のときは自宅近くの壕に逃げ込むようにしていたので、必死で駆け込んだ。先に壕の中に逃げていた母と弟たちの無事を確認したときは、ほっとした。無我夢中だったので、その時母に言われるまで自分の足に小さなガラス破片が刺さっていることに気付かなかった。その夜遅く、父と姉が帰ってきた。姉はガラス片がたくさん刺さっており、血を流していたが、家族全員が生きていたことを喜び合った。
翌朝、父と姉と一緒に再び、長与の親類の家に向かった。途中で通った爆心地付近の浜口町や松山町の惨状は、今でも忘れない。大やけどを負った人たちから「水をください」と頼まれたが、渡そうにも水を持っていなかった。水を飲ませてやりたかったと、今でも思う。橋の下は水を求めて川に逃げ込んだ人たちの遺体でいっぱいになっていた。
終戦後、灯火管制もなくなり、堂々と電灯をつけたとき、平和になったことを実感した。
<私の願い>
原爆により罪もない多くの人たちが亡くなっていった様子を見て、戦争は二度と起きてはならないと思った。 体験者として、その悲劇を戦争を知らない若い人たちに伝え、平和な日本をつくるための方法を考えてもらいたいと思う。