北村 ルイ
北村 ルイ(90)
北村 ルイさん(90)
爆心地から3.5キロの滑石町(当時)で被爆
=長崎市滑石1丁目=

私の被爆ノート

息子2人の無事に涙

2007年8月2日 掲載
北村 ルイ
北村 ルイ(90) 北村 ルイさん(90)
爆心地から3.5キロの滑石町(当時)で被爆
=長崎市滑石1丁目=

当時二十八歳。子どもは男三人で、夫は出征していた。義父と協力して、農業を営んでいた。あの日は、キクやイチジクの手入れをしようと、二男と二人で家の近くにある花畑に出掛けた。

花畑に向かう途中、何げなく見上げた空には、キラキラ光りながら飛ぶ飛行機。「なんかキラキラ見えるね。またB29やろうか」。二男に話し掛けた直後だった。

「ピカッ」-。辺り一面が光に包まれた。それと同時に、激しい爆風が押し寄せてきて、体は地面にたたきつけられた。その勢いで、数十メートルほどゴロゴロと転がった。あまりの衝撃の激しさに「もう死んだぁ」「もう死んだぁ」と何度も叫んだ。

しばらくして、何とか起き上がり目を開けると、空は真っ赤に焼けたよう。「あらー、まだ息の続いとった」。思わず声が出た。不思議とけがはなかったが、そばにいた二男を見ると、頭のてっぺんをやけどしていた。

二男の手を引き、家に帰ると、その変わりようにがくぜんとした。ガラスは粉々に割れて散らばり、戸はすべて吹き飛ばされていた。しばらく何も考えることができず、二人で、ボーッとその場に立ち尽くした。

少したって、ようやくわれに返った。長男と三男は、家にいたはず。無事だろうか。何とも言いようのない緊張感のまま、散乱したガラスやたんすの破片をかき分け、子どもたちを捜した。「いない」。そう思ったとき、後ろから近所の人が、「二人は、よそに遊びに行ったよ」と、声を掛けた。

程なくして、息子二人は、けろっとした様子で家に帰ってきた。うれしくてうれしくて、ぼろぼろ涙がでた。「家におったら死んどったよ。よかったね、よかったね」。何度も繰り返し、子どもたちを抱きしめた。

それからは、家の中の散乱したガラスなどをひたすら片付けた。夜までには、何とか寝るスペースは確保したので、その日は家で就寝した。

終戦までは怖くてしょうがなかった。また、あの恐ろしい爆弾が落ちてくるのではないか。ゴロゴロと飛行機の音が聞こえると、すぐに家の裏の竹やぶの中にある防空壕(ごう)に逃げ込んだ。本当に怖かった。
<私の願い>
核兵器だけは、絶対に許されない。一瞬にしてすべてのものを破壊し、人々を不幸にする。あの悲惨さは、原爆に遭った者にしか分からない。もう戦争はこりごりだ。今は平和で裕福。あのころと比べると、今は夢のような世界。若い人には、今の平和をかみしめて、生きてほしい。

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