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私の被爆ノート

勢い増す炎に泣き叫ぶ

2007年7月26日 掲載
鮫島 辰志(79) 鮫島 辰志さん(79) 爆心地から1.8キロの家野郷(当時)で被爆 =佐世保市清水町=

長崎市にあった長崎師範学校の本科一年生で、学校併設の寄宿舎で生活。学徒動員され、原爆投下直前は市内の三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場で魚雷の部品を作っていた。

八月九日は夜勤明け。午後からの授業に備え寄宿舎に戻り就寝。気が付くと、部屋の隅で崩れた材木の下敷きになっていた。そこからはい出し、傾いた寄宿舎の窓から中庭の池に飛び込んだ。

炊事場から火の手が上がり延焼。みんなが逃げ始めたが、背中にガラス片が刺さり肩を脱臼していた私は、深さが大人の胸ぐらいある池から出られず一人に。勢いを増す炎を前に泣き叫んだ。

何とか池から上がり、近くの小高い丘に避難した。夕方近くになり、先生や生徒と、重傷を負った人の救出活動を開始。学校に戻り、戸板にけが人を乗せトンネル工場に運んだ。

一帯は地獄絵。怖いとかいうレベルではなく、ぼうぜんと立ち尽くし「むごすぎる」と叫びたい衝動に駆られた。赤ちゃんの腹部が破れ、腸を詰め戻そうとしていた母親の姿は今も忘れられない。小川では顔を水中につけたまま多くの人が死んでいた。

この日は、工場入り口前の広場で眠った。

記憶は定かでないが、まだ暗いうちに照明弾が落とされ、辺りが昼間のようになった。「(敵が)来たー」。工場内に逃げ込むと、「アイゴー」「アイゴー」という泣き声が聞こえた。朝鮮の人が中にいたようだった。

中には入ることができず、外で眠っていると、汽笛が聞こえた。工場の向かい側の線路に汽車が到着した知らせだった。重傷の友人らを乗せた。その時の光景はすさまじいものがあり、無数の人々が土手をはい上がり汽車に乗り込んでいた。

十日午後、長与の国民学校に歩いて到着。多くの重傷者が横たわっていた。顔が丸く腫れ上がり、目や鼻、口が小さな穴のようになった水兵の姿を今でも夢見る。その印象は強烈で、後に絵に描いて残した。

翌日、汽車で佐世保市の自宅に帰った。十日間ほど眠り続けたと思う。髪の毛が抜け落ちたのは記憶にあるが、けがの治療はどうしたのかはっきり覚えていない。

被爆と関係があるのか不明だが、これまでに二度がんを患い、今もその後遺症に苦しんでいる。多くの仲間を奪った原爆を許さない。
(佐世保)

<私の願い>
あの「地獄の中」にいた人間としては、同じことを繰り返させたくない。教員時代から被爆体験や平和の尊さを学校などで語ってきた。被爆国に住む人は国際的に核兵器廃絶を訴えていくのが重要。一万人署名などに取り組む若者の活躍は素晴らしい。

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