長崎県立高女四年生だった私は、いつものように学徒報告隊として、大浦の自宅から三菱兵器茂里町工場に出掛けた。四階建ての油倉庫の受付が仕事場だった。
席に座っていると警戒警報が鳴り、防空壕(ごう)に避難した。すぐに解除になり、職場に戻っていると、上空にキラキラする飛行機を見た。今思えばB29だったのだろう。
十一時すぎ、工場の入り口に立っていると、目の前をオレンジ色の閃光(せんこう)が走った。驚いて建物の中に入ると突然爆風を感じ、慌てて目と耳をふさいで伏せた。数分がたち、恐る恐る目を開けると建物は無事だったが、ガラスが粉々に割れて散らばっていた。通路では工員たちが「爆弾が落ちたらしい」と話していた。
「顔から血が出ている」。友達が心配したが、近くにいたおじさんが「何でもない」と言ってくれて安心した。慌てて近くにいた五、六人の同級生と走って逃げた。向かいの機械工場は、つぶれてがれきの山。助けを呼ぶ声が聞こえてきたが、どうすることもできなかった。そこにいた友達は、全身やけどで終戦後間もなく亡くなった。
逃げる途中、防空壕に入ろうとしたが、外国人捕虜の「アイゴー、アイゴー」と泣く声が聞こえ、恐ろしくて夕方まで辺りをうろうろした。破裂した水道管の水を求めてやってきた男の人は、全身やけどでむけた皮膚がぶら下がり、立ち尽くしていた。
長崎駅より先は大丈夫らしいという情報が入り、線路伝いに走った。駅は燃えていた。五島町辺りで敵機を見たので防空壕に避難しながら、千馬町までどうにかたどり着いた。友達と別れ、一人になったが、南大浦の方角を見上げると山が青々と美しかった。少し安心し、また走りだした。
石橋をすぎ、川の地下水路に避難している家族を見つけたときはほっとした。すぐ上の姉は、山里小の運動場の防空壕掘りに駆り出され、爆風を受けた。芋畑で黄色い液を吐いたそうだ。一週間後には髪が抜け始め、その後全部抜けた。
両親、祖母と五人の姉妹は無事だったが、その後何も情報がないまま終戦の日を迎えた。今はただ、戦争が終わってうれしかったことだけを覚えている。
秋には学校が再開された。
<私の願い>
孫と同世代の子どもたちが世界中で戦争の犠牲になっている。子どもたちが笑顔を絶やすことなく、夢を実現できる平和な世界になってほしい。