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私の被爆ノート

耳つんざく爆音 今も

2007年7月12日 掲載
谷口 眞一(65) 谷口 眞一さん(65) 爆心地から1.8キロの家野郷(当時)で被爆 =長崎市昭和2丁目=

原爆投下の前は、昼夜関係なく、警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り、防空ずきんをかぶって防空壕(ごう)に避難していた。昼は敵機が五、六機飛び、夜は「探海灯」と呼んでいた日本軍のサーチライトの光が二筋、敵機を警戒するため金比羅山の上空を行き交い、照らしていた。

アメリカ兵が家の門を突き破って襲ってくる夢を見ることもあった。実際にそんなことがあったら、竹やりで戦わないといけないな、と考えていた。軍人へのあこがれがあった。教育で、そう仕込まれていたのだろう。

原爆投下日の朝。三歳の私は、十歳年上の姉と、家でまんじゅうを作っていた。台所の大きな平がまに、カシワの葉を敷き、その上でまんじゅうを蒸していた。実家は農家。近くの田んぼで草取りをしていた九歳年上の姉や母と一緒に、昼にでも食べようと思っていたのだろう。

「バーン」-。耳をつんざく爆音。台所の土壁が吹き飛ばされた。突然の出来事に姉は驚き、私をおんぶして裏山に逃げた。実家の一部が燃えたが、通り掛かった人が消してくれたらしい。角が焼け焦げた碁盤は、今も家に残っている。

田んぼにいた母と姉は、腕と背中にやけどを負った。部屋に蚊帳を張って、メリケン粉や天花粉を傷口に塗ったり、井戸水をくんできて冷やしたりしていた。当時は薬なんかなかったので、治療といっても、それぐらいしかできなかった。

その後しばらくの間、近くの長崎師範学校(現在の長崎大付属小)で避難生活を送った。鉄筋コンクリートの三、四階建てビルは倒れていなかったが、窓ガラスはすべて割れていた。床は波打ち、コンクリート片が付いたむき出しの鉄筋は、あめのようにぐにゃりと曲がっていた。

ましな状態の教室を探し、数世帯で共同生活を送っていた。一升瓶に半分ぐらい詰めた玄米を、棒でつついて精米する人の姿があった。一斗缶に薪をくべ、鍋をかけて、カボチャなどをゆがいて食べていた。当時のカボチャは、水っぽくて繊維が多く、今では信じられないほどまずかった。「カボチャを食べると、目玉が黄色くなる」という話もあった。
<私の願い>
核兵器の廃絶は、何としてもやり遂げなければならない、人類にとって最も崇高なテーマだと思う。大国主義が幅を利かせる現代、実現は大変だと思うが、日本は世界のリーダーとして訴え続けてほしい。

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