当時八歳。祖父母と母、兄と二人の弟の七人で本紙屋町の自宅に住んでいた。一九四五年五月ごろ、強制疎開のため自宅を離れ、片淵三丁目にある農家の家に間借りして暮らしていた。
あの日は、近くの寺で授業を受ける予定だった。登校途中に空襲警報が鳴ったため、すごすごと家に帰った。空襲警報にもだいぶ慣れ、特段恐ろしくもなくなっていた気がする。
帰宅後、近所の友達と玄関の前でしばらく遊んでいると、キラキラ機体を光らせながら、敵の飛行機が一機、浦上方面に飛んでいった。飛行機は次第に小さくなり、姿を消した…と思った瞬間、「ピカッ」とすさまじい光が辺りを包んだ。
自分を目がけて爆弾が落ちてきたとしか思えなかった。「死んだ」と、思った瞬間、時間が止まったように感じた。すべての音が消え、辺りがゆっくり動き、一瞬にして夕闇が訪れた。熱気が肌を伝わり、風が吹いてくる。
どれだけ時間がたったのか、きっと一瞬の事だったのだろう。ハッとわれに返った時には、とてつもない爆風が石や瓦と一緒になって襲ってきた。
「逃げなければ」。家の横にまわり、土間の入り口から家の中に入る。しかし、家もガタガタ震え、今にもつぶれそうな勢い。下敷きになってはまずいと思い、入ってきた土間の入り口から再び外に出て、家の裏手から逃げ出した。家の裏手は既に、爆風で吹き飛ばされたがれきが散乱。それを何とかかき分け、懸命に防空壕(ごう)を目指した。
近くにあった他人の防空壕にもぐり込んだが、人がいっぱいですぐに出た。うろうろしていると母親が来て、自分の家の防空壕に一緒に入った。母は何も言わなかったが安心した様子だった。
しばらくは防空壕に寝泊まりしようということになり、その日の夜に布団や、鍋、釜などの荷物を取りに家に戻った。いまだに火災が続いているところもあり、爆弾の威力をあらためて痛感した。
防空壕内は蒸し風呂のよう。たまに鳴り響く雷の音におびえながら、息を殺してじっと恐怖に耐えた。防空壕生活は終戦まで続いた。
<私の願い>
戦争で非常にひもじい思いをした。子どもたちに同じ経験をさせてはいけない。子どもから老人まで無差別に命を奪う核兵器は絶対に許せない。核兵器をなくすことが私の悲願であり、命のある限り、核廃絶に向けて活動していきたい。最近の憲法改正の動きを見ていて、日本が間違った方向に向かってはいないか心配になる。