秋本 三郎
秋本 三郎(76)
秋本 三郎さん(76) 爆心地から3.2キロの長崎市築町(現在の銅座町付近)で被爆 =長崎市春木町=

私の被爆ノート

聞いたことのない爆音

2007年6月21日 掲載
秋本 三郎
秋本 三郎(76) 秋本 三郎さん(76) 爆心地から3.2キロの長崎市築町(現在の銅座町付近)で被爆 =長崎市春木町=

当時十四歳。一九四五年四月から、現在の十八銀行本店近くにあった長崎電気通信工事局で働き始めたばかりだった。兄二人は出征中。母と弟妹三人は大草村(現・諫早市多良見町)に疎開しており、長崎市小菅町の自宅に父と二人で暮らしていた。

八月に入り、職場では工作室内にあったマンホール(機器を据え付けるための縦穴)を避難所に使用するための作業を、二歳ほど年上の同僚と一緒に進めていた。穴の上部に角材を並べてふさいだ後、九日ごろは壁や床に板を張る作業をしていた。

九日はいつものように出勤した。職場に着いて間もなく警戒警報が発令されたが、裸電球の明かりを頼りに穴の中で作業を続けていた。不意に裸電球が点滅したかと思ったら、直後に明かりが消え、“ゴー”という大きな爆音がしばらく続いた。今までに聞いたことのない音で、近くに大きな爆弾が落ちたと思った。逃げてきたのか吹き飛ばされたのか分からないが、転げ落ちるように穴に人が入ってきた。多分、年の近い先輩職員だったと思う。怖くてしばらく動けなかった。穴の外に出ると、工作室の天井がなくなり、窓ガラスや工具が辺りに散乱していた。

屋外に出て放心状態で座り込んでいた。見上げると、近くにあった県庁の屋上から白い煙が立ち上っていた。火事だった。そのまま、周囲の民家に延焼していくのをぼうぜんと見ていた。

この日は職場で当直をするよう命じられ、そのまま何日か職場に居続けて家に帰れなかった。数日後に、父が心配して職場を訪ねてきた。父と話し合い、家族が疎開している大草村へ二人で向かうことにした。だが「このような状況では、生きて会えないだろう」と思い、別れを告げたいとの気持ちだった。

途中、長崎駅前では黒焦げの遺体を焼いていた。浜口町辺りでは、焼け残った電車の台車の上に、子どもを抱きかかえたまま横たわる親子の遺体も目にした。悲惨過ぎて、涙も出なかった。大草に着き、疎開していた家族全員の無事を確認したときは本当にほっとした。その後はあまりよく覚えていない。
<私の願い>
とにかく戦争をしてはいけない。何の得もない。戦争で学徒動員など苦しい目に遭った。苦労続きで惨めな生活を送ってきた。今、憲法改正の話があるが慎重に進めてほしい。

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