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私の被爆ノート

水飲み息絶えた少女

2007年6月14日 掲載
関 力郎(77) 関 力郎さん(77) 爆心地から約4.8キロの長与村吉無田郷(当時)で被爆 =長崎市上小島1丁目=

爆心地から約四・八キロ離れた長与村吉無田郷(当時)。あの日、十五歳だった私は母と食料の買い出しを終え、会話しながら東小島町の自宅へ帰る途中だった。

一瞬だった。赤、黄、紫の閃光(せんこう)が一度に目の前を覆った。とっさに、近くの道路脇の溝に飛び込み、うつぶせになった。ゴウゴウという音と、悲鳴が背後から聞こえた。立ち上がると、景色は一変していた。草木は倒れ、黒い煙が立ち上がり、割れたガラスが散乱していた。母も同じ溝に逃げ込み無事だった。自宅に残る父と妹たちの無事を祈りながら、線路伝いに歩いた。

途中、頭上を米軍機が何度か旋回した。市街地が近づくにつれて、地獄へ向かっている錯覚にとらわれた。浦上方面から次々と全身血まみれの人が歩いてくる。片腕が焼け落ちた人、皮膚がただれた人、牛や馬は、はらわたが飛び出ていた。男女の区別がつかず、すべてが黒い塊に見えた。「助けて」と泣き叫ぶ声が焼け野原に響いた。

夕方、大橋町辺りで、やけどを負い、むしろをかぶった人に会った。その人が私の水筒を指さし、か細い声で言った。

「どうせ私は死ぬんです。せめて、一口だけ水をくれませんか」

よく見ると少女だった。少女は私が差し出した水を飲むと、その場に倒れ、息絶えた。その後も水を求める人が、私の前に列をつくった。途中で水がなくなり、近くの川で水をくんだ。涙が止まらなかった。「地獄だ。ここは地獄だ」。私は無意識に叫んだ。

負傷者の世話をして、自宅に着いたのは午前零時。家は柱も、屋根も吹き飛び無残な状態だったが、父も妹も無傷で、抱き合って無事を喜んだ。

戦後、両親は体調を崩しがちになり、ともにがんで亡くなった。私も二十代になると、髪の毛や歯はボロボロと抜け落ち、体に不安を感じることが多くなった。「戦争後もなぜ、苦しまなければならないのか」。恨めしい気持ちもあったが、「体が動くうちに、この体験を後世に伝えなければならない」。その使命感は募り、私は九州各地の講演会で被爆体験を語るようになった。
<私の願い>
原子爆弾の絶滅と戦争反対を訴え続けるのが私の使命。最近は、日本がまた戦争へ向かっているようなニュースばかりが目に入り、危機感を感じる。戦争をなくさなければ人類の未来はない。私が見た地獄のような光景を、子どもたちに見せたくない。

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