当時十五歳。稲佐町三丁目の九州配電稲佐変電所で、技師としてボイラーに石炭をくべる作業に従事していた。浦上天主堂そばの本尾町の自宅に家族八人で暮らし、八月九日は、兄の戦死を受けて上五島から来た兄嫁とその子ども、つまり私のいとこもいた。
朝、会社に行くと、爆撃で被害を受けた西浦上の電線の修理に行くように言われ、同僚七、八人と車で向かった。
長崎師範学校そばの芋畑で、上半身裸になり白い長ズボンをはいて「よいしょ。よいしょ」などと声を掛けながら作業していた。青白い光が突然、ピカーっと走った。近くに爆弾が落ちたと思った。慌てて畑に顔をうずめ、耳と目を両手でふさいだ。原爆がさく裂する音は聞いていない。
人の声がしたので、体を起こした。けがはなかった。辺りはほこりが舞い、薄ぼんやりとしていた。「大変」と、われに返った。自宅方面が燃えていたので、本原方面の山手へ向かった。
脇目も振らずに走った。途中、真っ黒い大粒の雨が降り、白いズボンは真っ黒になった。四、五歳の男の子を連れた母親から「助けて」と言われて振り向いた。だが、どうすることもできないし、自分が助かることで精いっぱいだったので、そのまま立ち去った。
西山を越え、本河内の同僚宅を目指した。午後三時前に着いたが、やっぱり家族の安否が気になり、来た道を引き返した。辺りは死体の山。生きている人から七、八回、とろんとした生気のない目で「水を飲ませてくれ」と懇願されたが、「水はないから勘弁して」と言うしかなかった。
本原の高台から、れんが造りの立派な浦上天主堂が崩れていく様子が見えた。天主堂そばに着くと、人が三十人ぐらい集まり、家族の安否を知人らに確認していた。私は天主堂の坂から、長崎の町が一面燃えている様子をやるせない気持ちで見るしかなかった。
一緒に暮らしていた家族たちは兄嫁や子どもも含め、高尾町の畑の一角にあった小屋にいた父以外帰らぬ人となった。父の元へ弁当を届けに行っていたであろう母は、遺骨さえ見つからなかった。生き残った父も、地元の上五島に戻った八月十七日、息を引き取った。
(上五島)
<私の願い>
あんな地獄絵はない。戦争は当然いけないが、核兵器は造ってはならないし、使ってもいけない。戦争や核兵器は絶対に嫌だ。人間として生を受けた以上、みんな仲良くしていかなければならない。