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私の被爆ノート

一面焼け野原で真っ黒

2007年5月31日 掲載
池田 和子(68) 池田 和子さん(68) 爆心地から2.6キロの東中町(現在の上町)で被爆 =長崎市ダイヤランド1丁目=

原爆投下時、家の床下に掘った三畳ほどの防空壕(ごう)に、私は母や三つ上の姉と潜り込んでいた。

当時、小学一年生。昼夜を問わず警戒警報や空襲警報が発令されていた。そのたびに声をひそめ、部屋の電球を布きれで覆い光が漏れないようにしたり、地下の壕に避難していた。父は私が三歳ぐらいの時に戦争でフィリピンに行った。姉と私がはしかにかかって寝ている間に、町内の人に見送られて出て行った。

グラグラッ-。地下から家が揺れるのを感じた。爆音や閃光(せんこう)があったのか、思い出せない。しばらくして壕を出ると、二階に上る階段沿いの泥壁がはがれ落ち、部屋の大きなたんすは倒れていた。街に人影はなく、ひっそりと静まり返っていた。家の瓦は吹き飛ばされ、その後雨漏りするようになった。

その日は朝から、時津にある母の親せきの農家に行く予定だった。食料がなかったので、しばしばそこで食事の世話になっていた。食事といっても、ふかし芋ばかり。食べると動悸(どうき)がした。母は農作業の手伝い、私は牛小屋に積まれた牛の餌の草を取って、刃物で細かく切って遊んだりしていた。

原爆投下から数日後、歩いて四時間ほどかかる親せきの家に家族で向かった。爆心地周辺は一面焼け野原でとにかく真っ黒。家は崩れ落ち、視界を遮るものもなく、遠くまで見渡せた。空腹と疲労感から、ただ黙々と歩いていた。

道端に死んだ馬が一頭横たわっていた。脇腹からのぞいたあばら骨には、わさわさと無数の白いうじがうごめいていた。気持ち悪くて、「臭い、臭い」と言いながら通り過ぎた。

その後、母から聞いた話では、首のない赤ちゃんをおんぶした母親が歩いていたり、路面電車の窓から体を乗り出したまま死んだ運転士もいたという。

戦後間もなく、軍服と帽子、ゲートル姿の男性が家にやって来た。「どこのおじちゃんやろか」「お父ちゃんらしかばい」-。小さいころ「お父ちゃんが帰ってきたら、三つ指立ててお迎えしようね」と姉と話していたが、久しぶりに見る父の姿に最初は誰か気付かず、ひそひそ話をした。
<私の願い>
戦時中は満足に食べられなかった。戦争のせいで父と七年間会えず、縁遠くなってしまった。何の罪もない人たちがたくさん死に、家族を引き裂く戦争。子どもたちには絶対に味わってほしくない。

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