当時、大橋町の三菱兵器工場で、養成工として働いていた。あの日は、潜水艦のエンジンの実験が昼から予定されていて、朝はその準備をしていた。技師の指示で歯車のピンを研ぎに、グラインダーなどの機械が置いてある部屋へ入った。ふと時計を見ると十一時。「そろそろご飯の時間か」とぼんやり考えながらピンを研ごうとした。
その時、まぶしい光が、ごう音とともに辺りに広がった。雷が百個ぐらい合わせて落ちたのかと思った。背にしていた柱が壁になり直接爆風を受けなかったが、それでも十二メートルほど飛ばされ、業務用の大型冷蔵庫にたたきつけられた。
意識はあったが、しばらくうずくまったまま動けなかった。十分ぐらいたち、ようやく動こうという気になって、がれきの中からはい出た。辺りを見回してびっくりした。何もなかった。建物も木も倒れ、すべてが真っ平らになったようだった。夢じゃないかと鼻をつねったが何も変わらない。
とにかくどこかに逃げなければと思い、山にある防空壕(ごう)を目指した。歩く先には、全身の皮膚がただれた男性、死んだ母親にすがりつく子ども、まさに地獄だった。「水をくれ、水をくれ」と叫ぶ声も聞こえたが、水をやろうにもコップもひしゃくもない。落ちていた布団の綿をちぎりとり、田んぼの水に浸して、水を求める人に絞ってやった。
そうしているうち、会社の上司が歩いてきた。「ここには何も残ってない。少しでも元気のあるうちに親元に帰れ、ここにいても死ぬだけだ」と言われ、列車に乗って実家のある深江村(現南島原市)に帰ろうと決めた。
近くの線路の方へ向かうと、まもなく救援列車がやって来た。この列車に乗って帰ろうとしたが、救援隊の人に「重傷者から先に乗せろ」と言われて乗ることができない。次の列車も、その次の列車でも同じことを言われた。日はとっぷり暮れ、次第に疲れがたまっていくのが分かった。このままここにいたら力尽きて死んでしまう。そこで田んぼに入り、体中に泥を塗り付けて真っ黒になった。四本目の救援列車にはなんとか乗ることができた。
諫早で列車を乗り換え、実家の深江村についたのは朝五時。母は「体一つあれば何よりの親孝行」と言い、帰宅を喜んでくれた。
<私の願い>
今の人たちは平和であることが当たり前だと思っているが、それは違う。ひとたび戦争が起こると人々から笑顔は消え、悲しみに包まれる。戦争で亡くなった人を慰める言葉はない。もう二度とあの悲惨な戦争を起こしてはいけない。「永遠の平和」。ただそれだけを願う。