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私の被爆ノート

叔父の遺骨見つからず

2007年5月17日 掲載
井村 キミ(95) 井村 キミさん(95) 爆心地から2.4キロの立山町で被爆 =長崎市片淵3丁目=

夫が徴兵され、子ども五人を抱えて立山町(当時)の実家に疎開していた。戦争に勝っているという報道ばかりだったので、生活が苦しくても我慢して過ごしていた。当時三十三歳。戦争というものがどういうものか分からないまま、町内会単位で竹やりや防火訓練に当たる日々が続いていた。早く平和になってほしいと願うばかりだった。

原爆投下の日、炊事場で昼食の準備をしていた。突然、外が激しく光り、突風が吹いて地面が激しく揺れた。思わず外に飛び出し、遊んでいた子どもたちを抱き締めて揺れが収まるまでじっとしていた。子どもたちは無傷だったが、母が手足にガラスの破片でけがをしていた。

家の中は倒れてきた家財道具で足の踏み場もなく、屋根瓦が吹き飛び、とても住めるような状態ではなかったため、近くの防空壕(ごう)に避難することになった。

避難する最中は爆弾が落ちたなどとは想像もつかず、ただただ何が起きたのか分からない状況で夢中で逃げた。後になって、広島に落とされた新型爆弾と同じものが、長崎にも落とされたのだと知った。

壕に避難した後は壊れた家から食料を持ってきて暮らした。久留米(福岡県)にいた夫も原爆投下直後、すぐに駆けつけた。壕にいるときに、やけどを負った人たちが「水をください」と助けを求めて来ることがあったが、どうしてやることもできなかった。

原爆投下から数日後、子どもに引地町(現・興善町など)にあった自宅を見に行かせたが、辺り一帯が焼け野原となっており、跡形もなくなっていた。原爆投下の日に、浦上方面に仕事に行っていた叔父は行方不明になり、遺体や遺骨はとうとう見つからなかった。

終戦を伝える玉音放送は、近所の人たちと一緒に防空壕の中で聞いた。日本が負けたのを知ると、悲しくて涙が止まらなかった。周りの人たちも涙を流していた。ただ、子どもたちがけがをせずにいてくれたことをうれしく思った。
<私の願い>
ただ平和を願うだけ。戦争の最大の害悪は人と人が殺し合うのが当然になること。老人が安心して暮らすことができる現代を幸せに感じるが、各国が兵器開発を競い合い、今後進歩していくことを不安に思う。

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