当時、時津村(現在の西彼時津町)で夫と義母、長女の四人で暮らしており、二女がおなかの中にいた。あの日は朝から近所の女性と農作業に出掛けていた。
長崎市側を背に草取りをしていると、後方から「ドーン」という音がしたので「敵機が来た」と思い、あわてて近くのミカンの木の下に伏せた。長崎市の方角を振り返ると、きのこ雲が見え、近くの農家の麦わら屋根やガラスが吹き飛んでいた。急いで自宅に戻ると母と長女は無事だった。
程なく自宅近くにトラックが到着し、荷台には全身が真っ黒に焼けただれた人たちが乗っていた。長崎市内から運ばれてきたらしく、けがの手当てのために病院を探していた。近くの萬行寺に運ばれ、境内が臨時の救護所になった。
翌日、長崎市内の親類の遺体を運ぶため、兄らと親類宅に向かった。市境にある坂を上り切ると、そこから先には一軒の家も残っていなかった。死体が転がり、ガスの漏れたようなにおいが充満していた。
タオルを口に当て、竹の久保町の親類宅へと向かう途中、「水をください」と顔が真っ黒に焼け焦げた人に求められたが、私たちは水は持っておらず、どうしようもなかった。親類宅に到着すると、家は倒壊し、親類は下敷きになって亡くなっていた。
その翌日からは萬行寺の救護活動に加わった。御堂にけが人が入り切れず、屋外にござやむしろを敷き、体を横たえていた。手当てをしようにも薬や包帯はなく、持ち寄った菜種油を塗ってあげることしかできない。数日後にはうじがわいてきて、はしで取っても体の中に入り込んでしまう。寺に運び込まれた人たちは次々と息を引き取り、消防団の人たちが戸板に載せ、近くに掘った穴の中に埋葬した。
長与の三菱兵器製作所堂崎工場で働いていた夫は、原爆が落ちた翌日から市内にあった軍需工場の片付けに駆り出された。夫は帰ると「きょうも何人もの亡くなった人たちを運び出した」などと話していた。一カ月ほど通っていたが、夫は口がただれ、お尻からうみのようなものが出る原因不明の病気になった。
(西彼中央)
<私の願い>
原爆は恐ろしい。たった一発で何万人もの人の命を奪う。人間かどうかも分からないほど真っ黒に焼けただれ、水を求めて亡くなった人たち。あの地獄のような光景を思うと、この世の中から核兵器をなくしてもらいたいと願う。