当時、県立長崎高等女学校の三年生だった私は、あの日も学徒動員で三菱兵器製作所の大橋工場にいた。昼時になるとトイレが込み合うので、早めにトイレに行こうと思い、作業場のある二階から一階に下りていた。
外がピカッと光り、気付いたら五メートル以上離れた広場に飛ばされていた。私の上に、生きてるのかどうかも分からない何人もの人が重なっていた。作業場にいた人たちはほとんど見当たらなかった。辺りにはがれきや倒れた人影があったと思うが、なぜかこの時の記憶はあいまいなままだ。
その夜は工場の監督らと金比羅山に避難した。翌十日、矢の平町の下宿まで歩いて帰り、体の具合が悪かったので十日ほど安静に過ごした。終戦は下宿のラジオで知り、体中の力が抜けた。今までやってきたことは無駄だったのかと打ちのめされたような感じだった。
その後、実家の崎戸に帰ったが、貧血症で一年間入院した。入院で学校を退学したため、同級生らとの連絡が途絶えた。ずっと体調不良は続いていたが、連絡が途絶えたことで、被爆したことを証言できる人がおらず、被爆者手帳をもらえなかった。交付は半ばあきらめていた。
一九七九年、生徒らの消息などを高女の恩師が記した「工場日記」が見つかったことを新聞で知った。遺族の方に連絡を取ると、九月に恩師の慰霊祭を開く予定で、同級生も数人参加するという。「参列すれば証人が見つかるかもしれない」と助言され、長崎市内であった慰霊祭に出席した。
今思えば、恩師が同級生らと引き合わせてくれたのかもしれない。同級生が証人探しを手伝ってくれることとなり、下宿先の大家さんや当時一緒に作業をしていた友人が証人になってくれた。そして、被爆から三十四年の時を経て、ようやく被爆者手帳を受け取ることができた。
原爆を受けてなお、今日の私がいるのは恩師と、一生懸命に証人探しをしてくれた同級生のおかげ。支えてくれた人たちの好意は一生忘れない。
(松浦)
<私の願い>
戦時中は嫌でも人の死と直面し、一日でも長く生きたいと願っていた。しかし、今は子が親を殺すなど信じられない事件が発生し、子どもの自殺も多い。せっかく築いた平和なのだから命の尊さを知り、若者にはもっと人生を大切に生きてほしい。