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私の被爆ノート

妹生存 喜びで力抜け

2007年4月12日 掲載
佐賀里ハルヨ(82) 佐賀里ハルヨさん(82) 爆心地から約2.7キロの下西山町で被爆 =長崎市虹が丘町=

当時、長崎市下西山町で質屋を経営していたおじの家に住んでいた。眼鏡橋付近にあった軍服を作る軍需工場に通いながら、おじの手伝いもしていた。

あの日は、朝からB29が飛んでおり、怖くて工場を休んだ。居間で家事をしていたら、突然ピカッと光った。「何だろう」と思った瞬間、これまでに経験したことのない威力の爆風が家に入ってきた。部屋の扉のガラスが飛んできて、私も一緒に吹き飛ばされた。

気がつくと、部屋はガラスの破片だらけだった。何が起こったのかまったく分からなかった。すぐにおばが戻ってきて、飯盛の実家に帰るよう勧められた。

急いで荷物をまとめ、実家まで歩いて戻った。早く家に帰りたいという気持ちでいっぱいで、周りの状況は目に入らなかった。

家に着いたのは夜だった。家には、両親と姉、弟三人、祖母がいた。しかし、県立長崎高等女学校三年生だった妹が戻っていなかった。父が「おまえが捜さないと誰が捜すんだ」と言った。十日の午前三時ごろ、隣に住んでいた友人と一緒に、妹の学徒動員先の茂里町の兵器工場を目指して歩いた。

立山付近に来ると、普段は青々と茂っていたイモ畑が焼け野原になっていて、服がボロボロで、髪がボサボサになった人たちが「水をくれ」と声を上げていた。かわいそうに思い、家から持参していた弁当と水を分けてあげた。

結局、私たち自身の食べるものがなくなった。銭座の川にたどりつき、水を飲んだときはうれしかったし、味がおいしく感じた。

妹が働いていた工場は跡形もなく倒れていた。妹を捜し回ったが、見つからなかった。「もう死んでしまったんやろう」と言葉にしながらおじの家に戻った。

しばらくすると、妹が伊良林国民学校で手当てを受けているとの知らせが家に届き、おじと急いで学校に向かった。妹は頭にけがを負っていたが、無事だった。体の力が抜けるくらい安心したし、うれしかった。

その日の夜、妹をリヤカーに乗せ、おじと飯盛町の実家に歩いて戻った。家に着くと両親も私と妹の無事を喜んでくれた。
<私の願い>
戦争は誰もが二度と経験したくないもの。いま、母親が子を殺したり、子が親を殺したりと、悲しい出来事が多く起こっている。平和な世界を実現するためには、まずは親子、友人、近所の人たちと仲良くすることが必要だ。

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