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私の被爆ノート

自宅も火の海にのまれ

2007年4月5日 掲載
森 洋子(73) 森 洋子さん(73) 爆心地から約2.5キロの西上町(現在の筑後町)で被爆 =長崎市千歳町=

当時は西坂国民学校の六年生。八月九日は、西上町(現在の筑後町)の自宅で座敷に寝そべって母と話をしていた。同じ学校の三年だった弟は、隣の部屋で四、五人の友達とセミを捕りに行く相談をしていた。

空いっぱいにグオーングオーンと音がして、だんだん大きくなった。私は「B29(米爆撃機)よ」と叫び、玄関に走った。ピカーッと光り、気が付くと、家の泥壁や屋根の下敷きになっていた。やっとのことではい上がり、同じように下敷きになって泣き叫ぶ弟たちを、座敷から来た母と引っ張り出した。みんなかすり傷程度で無事。母が次の爆弾に備え「庭に行って伏せをしなさい」と言うので、裏庭に出ると、夜のように暗かった。

しばらくすると、少しずつ空が明るくなった。家は、畳が爆風でひっくり返り、天井は抜け落ちていた。すぐ近くの防空壕(ごう)に行くため、傷薬やいり大豆などを入れた救急袋を肩から提げ、靴がなかったので、足袋を二足重ねてはいた。

防空壕には、顔をやけどして唇の皮がたらりと下がった人やまゆが焦げた人などがいた。そのうち、自宅隣の家の屋根から火が出たので西坂の山の上に逃げることになり、その前にもう一度自宅に戻った。弟は床の間から日本刀を、母は仏壇から過去帳と夏布団を一枚持ってきたが、私は恐ろしくて入ることができなかった。

家の近くのがれきに埋もれた路地の水道で、鼻やのど、目、耳などを洗った。そのとき三人とも青い、きな臭いものを吐いた。何だったのかは今でも分からない。

山の上の畑にたどり着くと、そこからは自宅も見えた。ゴウゴウと燃える音が恐ろしく、畑の中で布団をかぶり震えていた。あっちこっちと火の手が広がってゆく。わが家にも火が付き、母が大声で叫んだ。大事な鉛筆もノートも焼けてしまうと思うと、悲しくて涙が出た。その夜は、眼下に広がる火の海を眺めて過ごした。

翌日、足の裏をやけどするような焼け跡を歩いて自宅に戻ったが、何もなかった。それから防空壕での生活が始まった。焼け残った町からおにぎりが送られてくるが、暑さで半分腐りかけていた。腐った部分を手で取り除いて食べた。
<私の願い>
戦争がない状態が平和だとはいえない。いじめや服装の乱れなど、今の若者が抱える問題は多い。自分を律することができる、しんを持つことが必要。いろいろな世界を知り、壁を突き破る強さを身に付けてほしい。

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