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私の被爆ノート

眼下の光景にぼうぜん

2007年3月29日 掲載
田中 秀雄(71) 田中 秀雄さん(71) 爆心地から約5.5キロの柿泊郷(当時)で被爆 =長崎市若竹町=

母と兄と私は、柿泊郷(当時)近くの「たんざきのはな」と呼んでいた岩場で、ミナ採りや魚釣りをしていた。突如、オレンジ色の閃光(せんこう)が走り、背後の絶壁に茂った木々が爆風で海の方になびいてきた。「何ごとやろか」。驚いて家に帰った。

その日は朝から空襲警報、警戒警報のサイレンやラジオ報道があり、通っていた西浦上国民学校(現在市立西浦上小)は休み。よくあることで「またか」と思った。

実家は西北郷(現在・若竹町)の農家。お盆に団子やまんじゅうを作るため、家で取れた小麦の製粉をしに、歩いて約二時間の式見村(当時)の加工場まで行った帰りだった。岩場での磯遊びは寄り道の定番だった。

岩屋山のすそ野に沿って帰路に就いた。山道には、根こそぎ倒れた木々が道をふさいでいた。乗り越えたり下をくぐったりして先を急いだ。

途中、眼下に浦上地区が広がりぼうぜんとした。松山町一帯は赤茶けた焼け野原。噴き上がる火柱や黒い煙が点在していた。

実家も全焼。夕方家に着くと、穀物棚に積んでいた米俵がくすぶっていた。悲しかった。付近の家々もすべて燃えていた。安否の確認に来たのか、それぞれの親せきたちが右往左往していた。

近くの畑で農作業していた父と兄嫁は生きていた。原爆投下時、二人は前かがみで草取りをしており、背中や腰にやけどを負っていた。

防空壕(ごう)で一週間ほど過ごした。兄夫婦は被爆した三人のわが子を介抱。家の縁側に寝ていた赤子の女の子は、爆風で居間まで飛ばされたらしいが、生き延びた。近くで友達と遊んでいた男の子は全身やけどで三日後に、下の男の子も十二日後に死んだ。

薬などなかった。兄夫婦は、畑で取ったナスの葉のぎざぎざした部分を子どもの患部に当て、うみを取り出そうとしていた。子どもたちの皮膚は茶褐色にただれ、水泡だらけ。壕内には「痛い痛い」といううめき声と、何とも言えない、いやなにおいが漂っていた。

近くの線路沿いでは、駅に向かって、けが人がぞろぞろと歩いていた。途中で力尽きたのか、死んでいる人もいた。怖くて直視できなかった。
<私の願い>
核兵器使用は世界の破滅につながる。人道的にも許されない。原爆のむごさや恐ろしさは被爆者にしか分からない。戦争のない平和な世界の実現に向け、被爆者は自分の体験談を後世に伝えていかなければならない。

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