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私の被爆ノート

動かぬ子の名 叫ぶ母

2007年3月23日 掲載
野口ヒサ子(77) 野口ヒサ子さん(77) 爆心地から1.8キロの長崎市東北郷で被爆 =雲仙市小浜町=

一九四四年三月に旧南高千々石町にあった国民学校高等科を十四歳で卒業後、三菱長崎兵器製作所大橋工場で働くことになった。魚雷の部品作り。休みもなくひたすら働き続ける日々を過ごしていた。

あの日は夜勤明けで、住吉にあった女子寮で仕事の疲れでぐっすり眠っていた。「ドドドーン」と大きな音で目が覚めたと同時に風圧で体が飛ばされた。そのまま気を失ってしまった。再び目が覚めると木や板が私の上にかぶさり、顔も砂ぼこりでざらざらしていた。

「爆弾を落とされたんだろう」。そう思うと気が焦り、逃げ場を探すことを考えた。寮の中からは泣き叫ぶ声やうめき声が聞こえてくる。体にかぶさっている物を払いながら外への出口を探し、壊れたガラス窓から寮を出た。

辺り一面にあったはずの家々や建物は倒壊し、粉々になっている。ぼうぜんとしながら、ふと自分の姿を見ると、寝た時の下着姿だったことに気付いた。体中傷だらけで、特に左手はガラスで切ったのか傷が深く出血がひどかった。下着の端で傷口を押さえながら歩き続けた。

三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場に逃げ込んだものの、その場にいた人から「入り口が崩れたら窒息する」と言われ、今度は近くの山へ避難した。

山には大勢の人がいたが、ほとんどが服はボロボロでやけどがひどい。大やけどしている母親は、乳児を抱いて名前を叫びながらお乳を飲ませていたが、その子はぐったりしたまま動かない。何度も名前を叫び続ける母親の姿を今でも忘れられない。

その日は山の近くの小屋で一夜を過ごし、翌日から実家の小浜町に向け出発した。汽車や徒歩などで家に着いたのは十三日の朝。私が長崎で死亡したと思っていた母は、泣きながら抱き締めてくれた。

数日間は穏やかに暮らしていたが、髪の毛が抜ける症状もあり、原爆の恐ろしさを感じた。今でも後遺症が出ないかと心配している。
(雲仙)

<私の願い>
原爆の恐ろしさが身に染みているだけに、こんな体験をするのは私たちだけで十分だ。戦争はどんな理由があっても起こしてはいけない。大惨事となる核兵器の使用は絶対にあってはならないと叫び続けたい。

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