被爆当時は新興善国民学校の六年生、十二歳の時だった。自宅は金屋町にあったが、滑石町(現在の滑石一丁目)の祖父母の家に疎開していた。
その日は朝から友人三人と川で泳いでいた。その後、土手に上がった瞬間、「ピカッ」と周囲が光り、熱線とともに爆風が襲った。とっさに、目と耳を両手で押さえて地面に伏せた。
ごう音とともに、国鉄道ノ尾駅方向からごみや瓦などが吹き飛んでいた。恐ろしくなり、土手を下り、近くの理髪店に飛び込むと、いすに座っていた散髪途中の客や理容師の女性は放心状態だった。
「パラパラッ」という機銃掃射の音がした。しばらく理髪店に避難していたが、母や祖父母、弟三人が心配で、音がやむのを待ち、家に向かった。その時、周囲にあった数軒のかやぶき屋根から一斉に火の手が上がった光景が忘れられない。
家に戻ると、中の家族は無事で安心した。しかし建具は壊れ、ガラスは散乱、屋根は傾き、家の中は足の踏み場もない状態だった。水の浦町の三菱長崎造船所に勤めていた父と、金屋町に住む祖母の安否が心配だった。
その夜、爆心地方面の空は真っ赤に染まり、時折「ボーン」とガスタンクが破裂するような音が聞こえた。恐ろしくて、眠ることもできず過ごしていると、明け方近くに父が帰宅した。西山方面から山を越え長与へ出て、たどり着いたという。
金屋町に住む祖母の安否が気になり、道ノ尾駅に行った。駅の広場には、全身が赤黒く焼けただれ傷口にウジがわいている人、目をぎょろぎょろさせている人、「水ば、水ば」と声を絞り出す人などが大勢あふれ、死んでいった。
十一日、祖母が知人に連れられ、放心状態で帰宅した。大したけがもなく、全員がそろった時は家族みんなで喜び合った。混乱状態の中で、祖母が大切に抱えていた木製の観音像は、今も家に祭っている。
数日後、父と金屋町の自宅を見に行くと、一面焼け野原で、家は跡形もなかった。「これが原子爆弾か」とその威力をぼうぜんと眺めていた。悲しいのに、涙も出なかったことを覚えている。
<私の願い>
原爆投下は、ナチスドイツ軍のアウシュビッツ強制収容所でのユダヤ人虐殺と同様、人が人であることを否定する行為。原爆被害の事実を語り継ぐことで、人類の滅亡をもたらす核兵器の廃絶を訴えていかなければならない。