当時は小学六年で十一歳。夏休みだったので長崎市大浦東町の実家を離れ、弟二人と一緒に祖父の家に疎開していた。
八月九日。弟たちを連れて、朝から近所の川で遊んでいた。突然、けたたましいサイレンの音が頭上で響いた。それは空襲警報の解除を知らせるサイレンだったのだが、夢中で遊んでいた私はそれを空襲警報と勘違い。すぐに弟たちを連れて家に戻った。今考えれば、その勘違いが私たちの命を救った。
家の奥間に逃げ込んだ直後、原爆がさく裂した。家の中が一瞬でめちゃめちゃに壊れたことははっきり記憶しているが、音や光はほとんど覚えていない。私や弟たち、祖父、そして一緒に疎開していた母方のおじとおばの全員が無事。今思えば本当に幸運としか言いようがない。
部屋の壁には大きな横穴がぽっかり開いていた。私たちはその穴から裏山に走って逃げた。家の周囲は田んぼや畑ばかりだったので、長崎の街の惨状はすぐには分からなかった。もちろん、それが原子爆弾なんて知る由もなかった。
日が暮れ始めたころ、ようやく家に戻った。部屋中の畳が反り上がっている光景は今でも忘れられない。大八車で運び込む途中のたんすには、窓のガラス片が粉々になって突き刺さっていた。
被爆から数日後、実家の様子を見に行っていたおじが戻ってきた。怖い表情で「とにかくすごか。子どもには見せられん」とつぶやいた。遺体が転がり、何人もの負傷者がうめいている光景を目の当たりにしたのだろう。実家にいた両親が無事という知らせが唯一の救いだった。
私も被爆の十日後、実家に歩いて戻った。人の遺体は見なかったが、牛や馬の死体は片付けられずに横たわっていた。強烈なにおいはそのまま。あのころを思い出すと今でもぞっとする。
これまで、弟と原爆の話をそれほどしなかった。あまりにむごい記憶を引っ張り出したくないというのが、私たちの正直な胸の内だ。
<私の願い>
原爆について、毎年八月になれば孫に少し話すくらい。でも自分を含め被爆者の年齢はどんどん高くなっている。私たちの記憶は風化する一方だ。その半面、六十年以上経過した今でも核兵器は世界中に広がり続け、不安はなくならない。次の世代に私たちの記憶を伝える義務を感じている。