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私の被爆ノート

えたいの知れない爆撃に恐怖

2007年3月1日 掲載
小川 末夫(74) 小川 末夫さん(74) 爆心地から8.5キロの西彼杵郡茂木町(当時)で被爆 =長崎市出来大工町=

原爆が投下された日の午前九時ごろ、隣の家に住んでいた浦上地区の県立長崎工業学校(当時)に通っていた少し年上のお兄さんが、国旗に寄せ書きしてもらうために、学校に向かおうとしていた。数日後に特攻隊員として鹿児島に赴く予定だったのだ。

その朝、アメリカ軍の飛行機が飛んだのを見ていやな予感がしたのか、私の父は「きょうは行かんほうがいい」と止めたが、彼は「きょうしか行く日がない」と言って出て行った。彼を見たのはそれが最後。学校で爆死したという。

私は、西彼茂木町飯香浦名(当時)に住んでおり、近くの日吉国民学校の高等科一年だった。隣のお兄さんが家を出た後、同級生と奉仕活動のために、家から歩いて三十分ほどの「こしき岩」に向かった。頂上の神社周辺には大きな松の木が十本ほどあり、木の幹にのこぎりで切り込みを入れ、垂れてくる松やにを集めていた。

「ピカーッ」。突如ものすごい光に包まれた。耳をつんざくような「ドーン」という爆音に続き、生暖かい爆風が体を襲った。足を踏ん張らないと倒れそうだった。

何が起こったのか分からず、ただ恐ろしかった。集めた松やにも放って一目散に実家に戻った。

家の雨戸が爆風で飛ばされていた。家には誰もおらず、近くの防空壕(ごう)に行った。壕の中は暑く、住民らは壕外に出ていた。両親と弟もいて無事だった。怖くて泣いている女性がいた。

当時は「原爆」という言葉を知らなかった。「どうなるんだろう」。みんなえたいの知れない爆撃に恐怖心を抱いていた。

しばらくすると、真っ黒な雲が太陽を覆い、夜のようになった。雲の間からは紙切れが次から次に降ってきた。アメリカ人が飛行機からビラでもまいたのかと思ったが、爆撃で舞った新聞紙の燃えかすだった。異様な光景だった。

原爆が投下されて一、二カ月後、「浦上の方は被害がひどいらしい」と先生が言ったので、みんなで見に行った。爆心地周辺は一面焼け野原で、がれきや馬の骨のようなもの以外は何もなかった。「一生緑は生えないだろう」。うわさ通りの印象だった。
<私の願い>
戦争が終わった時は、敗戦の悔しさの半面、体の弱い人や女性が救われるようになると希望も感じた。平和を継承するために、すべての被爆者は日常生活の中でも機会をみて被爆体験を後世に語り継ぐべきだと思う。

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