松尾ヤス子
松尾ヤス子(67)
松尾ヤス子さん(67) 爆心地から2キロの長崎市西北郷(現在の西北町)で被爆 =佐世保市勝富町=

私の被爆ノート

差別おびえやけど隠す

2007年2月22日 掲載
松尾ヤス子
松尾ヤス子(67) 松尾ヤス子さん(67) 爆心地から2キロの長崎市西北郷(現在の西北町)で被爆 =佐世保市勝富町=

当時、西浦上国民学校に入学したばかりの一年生。八月九日は朝から家近くの寺で友達と遊んでいた。頭上を通る爆撃機に気付いた瞬間、目の前が真っ暗になり、二、三十メートルほど飛ばされ、衝撃で気を失った。

家までどうやって帰ったか覚えていない。首のない赤ちゃんをおんぶし、ちぎれた洋服を着た母親が、子どもの名前を呼びながらさまよい歩いていた光景は鮮明によみがえる。道にあふれる、炭のように真っ黒になった人や牛馬。全身にやけどを負いながら水を求めて川に向かう人たち。また、あちこちで火の手が上がっていた記憶があり、とても怖く、不安だった。

十代だった姉は原爆が落ちたとき、玄関や窓を開け放した家で裁縫をしていた。熱線を全身に浴び、体中がただれ、肉が煮えたぎったような状態になった。体にうじ虫がわき、竹ばしで一匹ずつ取り除いたが、取っても取ってもわいてきた。「水が欲しい」と言い続け、一週間後、「ありがとう」と言い残して死んだ。心優しく、色白で美しい自慢の姉だった。なぜこんな死に方をしなければならないのかと、悲しかった。

私は左腕の内側にやけどを負い、あとが残ったが、母や周りの人から「嫁にいけないから被爆したことは黙っていなさい」と言われていた。実際に顔にケロイドがあるなど一見して被爆者と分かる人が「気持ち悪い」と差別を受けていたから、「話せば差別される」と思い込み、袖のない洋服は着たことがなかった。

夫も長崎で被爆したが、幸い二人とも大きな病気の経験はない。だが、被爆した兄の息子が急性白血病で若くして亡くなったため、「子どもにも何らかの影響がある」と思い、子どもたちの健康は気に掛かる。三人の子どもは皆皮膚が弱く、「原爆の影響か」と今でも悩んでいる。今後もずっと不安を抱えて生きなければならないと思うと、あらためて原爆の恐ろしさを感じる。
<私の願い>
絶対に戦争は繰り返さないとの思いから昨年夏、中学生に初めて被爆体験を話した。若い世代に私たちの思いを継いでほしいと願っている。また、被爆二世、三世への原爆の影響も研究してほしい。

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