当時、長崎医科大付属病院の内科病棟に勤務する看護婦で、医師の診療補助やカルテ記入などの作業に従事していた。
戦争によって自分自身の命が危険にさらされるような経験はあまりなかったが、空襲警報が鳴って他の町が攻撃されている様子を窓の外から見るとやはり恐ろしく感じていた。
八月九日は、内科病棟の一室でカルテ記入の作業をしていた。突然、強烈な爆音が聞こえ、閃光(せんこう)が走った後、気を失ってしまった。直撃弾が病院に落ちて、自分の上の階まで破壊されたのかと思うほど激しかった。意識が戻ってもしばらくは起き上がることができず、顔に小さなガラスの破片が刺さって血が流れていた。
その後、医師と婦長の指示で、患者の様子を見に行った。歩くことができる患者を地下室に避難させようとしたが、ある男性患者が「自分のことより、けがをした看護婦さんを連れて行ってください」と言ってくれたことを覚えている。
街は火の海になっているということだったので、患者を連れて病院の近くにある丘に避難することになった。自分はけがをした同僚の看護婦を背負って行ったが、後日その同僚からお礼を言われるまで忘れていたほど無我夢中で逃げていた。街を見下ろすと、燃え上がる中から避難してくる人の列が見えた。
患者を避難させた後、救護所が設けられたかもしれないと思い、同僚と街に戻ろうとしたが、途中で日が落ちてきたので、その日は近くの防空壕(ごう)に泊まらせてもらった。翌朝、壕の持ち主がおにぎりを持ってきてくれた。食糧難の時代に、ありがたかった。
病院に戻ると救護が始まっており、医薬品は乏しかったが、自分たちも手伝った。その後、しばらく南高(当時)の実家に帰っていたが、診療再開に合わせ病院に戻った。
街中で、亡くなった人や動物の無残な姿を見ると、地獄とはこういうものかと強く感じた。
<私の願い>
原爆を経験した自分たちから見ると、核保有について論じられていること自体を恐ろしく感じる。世界各地で当たり前のように戦争が起きている状況を見て、平和になってほしいと切実に思う。