浜辺 良子
浜辺 良子(77)
浜辺 良子さん(77) 爆心地から2.3キロの長崎市東北郷(現・赤迫1丁目)で被爆 =長崎市ダイヤランド1丁目=

私の被爆ノート

姉は涙をボロボロと

2007年2月8日 掲載
浜辺 良子
浜辺 良子(77) 浜辺 良子さん(77) 爆心地から2.3キロの長崎市東北郷(現・赤迫1丁目)で被爆 =長崎市ダイヤランド1丁目=

当時、瓊浦高等女学校四年。私は学徒動員され、長崎市の三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場で働いていた。

あの日。小ケ倉の自宅から徒歩と電車で住吉に向かった。朝から空襲警報が出たせいで、工場に人が避難し、話し声が騒々しかったのを覚えている。その後、空襲警報は解除されて辺りは落ち着き、入り口から十メートルぐらいの場所で、平たい鉄板を削る作業をしていた。

工場内の電気が突然消え、薄青い光が走った。風がビューと吹き、頭上から岩のかけらがパラパラと落ちてきた。何事かと思い、外に出ようとした。だが、「危ない。外に出ちゃ駄目だ」と男の人の声が響き、仕方なく機械の陰に隠れていた。

工場内に掘られた横穴にいったん集まり、みんなで山に避難した。途中、道端で小さな子どもがトタンをかぶせられていた。トタンを払い、そっとのぞき込んだが、子どもはピクリとも動かなかった。山では数カ所で火の手が上がり、男の人が消火作業をしていた。

その後、トンネル工場に戻り、不安な夜を過ごしていると、私と同じ年ごろの女性がトンネルに逃れてきた。髪が焼けてはがれ落ち、服は破れ、やけどで背中全体が真っ赤になっていた。女性がしきりに痛がるので、旋盤に使う油を三角きんに浸し、背中にポタポタと落としてやると、痛みが和らいだようだった。

夜明けとともに、大浦、深堀方面の約二十人が集まり、それぞれの自宅に向かった。午後二時半くらいに小ケ倉に着くと、三つ年上の姉が私を見つけ、駆け寄ってきた。「よかった、無事で…」。姉は涙をボロボロとこぼし、二人で抱き合った。

実は、「トンネル工場のことは家族にも秘密にするように」という指示を受けていた。父や姉は、私が大橋町の三菱兵器の工場にいると思っていたため、捜しても見つけられず、とても心配していたそうだ。

八つ年上の兄は台湾沖で戦死した。ペーロンが好きな兄だった。終戦後、地区でペーロン大会が開かれるたび、母は「(兄を)思い出すから見たくない」と、泣きながら畑で作業していた。母の悲しい顔を見るのがつらかった。
<私の願い>
戦争は二度と嫌。食べ物もなく、本当につらかった。今も世界のあちこちで争いが起こり、傷ついた人の映像をニュースで見るたび、胸が締め付けられる。平和のありがたさをかみしめ、感謝の気持ちで日々を過ごしている。

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