空襲警報が解除され、西山二丁目の自宅で昼食の準備をしていた。突然、虹のような光に包まれ、気付いたら隣の部屋に吹き飛ばされていた。
床は抜け、障子の形はなく、窓ガラスは粉々。屋根の一部は吹き飛び、青空が見えた。何が起きたか分からないまま、当時一歳の娘と、お守りをしていた十七歳の妹の無事を確認し、家の前の防空壕(ごう)へ入れた。
午後二時ごろ、市役所の前で被爆し、顔の右半分と腕に大やけどを負った夫が帰宅、私たちの無事を確認すると、勤め先の軍司令部に戻った。夕方、父も訪ねて来た。父は三重町の親せき宅に疎開するように言い、城山町の自宅へ帰って行った。当時四十八歳だった母や二十六歳の姉、七歳と六歳の弟の安否はまだ分からなかった。
「城山町の家は焼けてしまって何もない」。十日午前十時ごろ迎えに来た父は、落胆したように実家付近の様子を話した。夜は防空壕で明かしたという。私は心配を抑えながら自宅を出発。娘を背負い、父、妹と徒歩で山を越えた。
浦上天主堂まで着くと、建物はごう音を立てて炎上。大橋町周辺では、立ったまま焼け死んだ馬や、走る格好で息絶えた男性の死体に目を覆った。焼け付くような日照りで死臭が立ち込める中、負傷者や死体の間を縫うように歩いた。
大橋町から国鉄の線路に出て、長与駅に向かった。駅では自分たちを捜しに来たという親せきと偶然に遭遇。心配されていることが、うれしかった。その時、大きなにぎり飯をもらったが、のどを通らなかった。
滑石から山を越え、三重町の親せき宅へ着いたのは午後七時ごろ。その夜は「母たちが無事でいてほしい」と祈りながら床に就いた。
母、姉、弟二人が死んだのを知ったのは十二日。父と妹らが実家の様子を見に行くと、一カ所に四人の骨が寄り添うようにあったという。空き缶に入れられ、戻ってきた骨を見て「これが母や姉、弟の姿か」と思うと涙が止まらなかった。
<私の願い>
なぜ人は殺し合いをしなければいけないのか。大人から幼い子どもまで、死ななくてもよかった人たちすべてを巻き込む戦争は、もう絶対にしてはいけない。生き残った者の務めとして、平和な世の中のありがたさをずっと語り継いでいきたい。