長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

もし学校に行っていたら

2007年1月25日 掲載
森 幸男(75) 森 幸男さん(75) 爆心地から3.2キロの川平町で被爆 =長崎市千歳町=

五人兄姉の末っ子で当時十四歳。旧制鎮西学院中(現在の活水高の位置)一年生だった。

一九四五年七月二十九日、三十一日、八月一日の三回、米軍が長崎を爆撃した。自宅があった岩瀬道町は三菱長崎造船所の近く。母と近くの防空壕(ごう)に逃げると、壕に入ってきた人が「外で誰か死んでいるぞ」と言った。自宅に引き返すと、家の前で父が死んでいた。三十一日、父を火葬し、母や姉ら家族六人で市内から離れようとした。

川平の農家に疎開したのは六日。九日朝、父の死を学校に連絡しようと川平を出た。途中、西浦上小近くで警戒警報が鳴り、防空壕に入った。「今日は行かなくてもいい」。そう思い直し、川平の疎開先に帰った。十分もたたないうち、ピカッと青白い光とごう音、爆風が襲ってきた。牛小屋に走り込み、目と耳を押さえて、地面に伏せた。

十日、血だらけで川平に戻ってきた人から「長崎は全滅」と聞いた。母の実家の大村に行こうとしたが、いったん岩瀬道の自宅に戻ることに。初めて人間の姿を見たのは岩屋橋近く。七、八人が真っ黒な姿で動かなかった。男女の区別は分からなかった。髪はちりぢり。何も着ていない。

「水」「水」-。声を上げている。持っていた水筒から水を飲ませようとすると、母から「水をやると、すぐに死んでしまう」と言われてやめた。大橋付近に来ると、川の中に人が折り重なって死んでいた。何百人もいた。みんな水を飲みに来ていたのだろう。

「もし、九日、あのまま学校に行っていたら、きっと死んでいただろう」。その後、父の死と長崎で見た光景は忘れようとした。言葉に出すと涙があふれてしまうから。三年前から観光ボランティアガイドとして、修学旅行生の平和学習を約百回担当。あの日、生かされた命を大切にして語り続けたい。
<私の願い>
今の子どもたちは平和な時代に慣れてしまっている。戦争が六十年もないときに、戦争の怖さを話しても分からないだろう。子どもたちのいじめが多い。弱い人をいじめるのはひきょう者。立ち向かう勇気を持ってほしい。

ページ上部へ