当時十五歳。県立農学校(現在の県立諫早農高)の二年生だった。新型爆弾投下から二日後の八月十一日、奉仕作業のため、朝から先生や同級生たちと一緒に長崎に向かった。
たまたま汽車で諫早の長崎刑務所に勤務していた叔父と一緒になった。同刑務所浦上刑務支所に救援に向かうとのこと。道ノ尾駅で降りてしばらく一緒に歩いたが、大橋で別れた。途中、馬車の荷台がひっくり返り、馬があおむけに倒れて死んでいた。畑の隅にこんもりとした土の山があり、竹筒の中に真新しい赤い花が一輪。そんな光景をいくつか目にした。今は飼い犬が死んだときなどに行う埋葬の仕方だが、あれは恐らく人間だったのだろう。「火葬したのだろうか」。多感な時期だっただけに、とにかく怖かった。
作業場となった長崎医科大では十人程度のグループになり、建物内から出た紙製の箱を近くの道路まで繰り返し運んだ。煙突は折れ、建物のガラスは割れていた。白衣を着た人たちが建物を出たり入ったりしていたが、さほど多くはなかったと思う。タオルを水でぬらしては帽子の中に何度も入れ、暑さをしのいだ。その日は一、二時間で作業を終え、再び汽車に乗って夕方には諫早にたどり着いた。
その後、叔父が病気になり、入退院を繰り返した末、亡くなった。病名は分からないまま。振り返ると、爆心地近くの浦上刑務支所で作業をしていたため、原爆病になったのではないか。
自分も二十歳くらいから髪の毛が抜け始めた。周囲は「季節の変わり目だから」と言ったが、皮膚科で治療しても一向に生えてこない。一緒に長崎に行った同級生二人も二十歳代で同じ症状が出たようだ。結婚した二十歳半ばにはかなり薄くなり、人生に少なからず影響を与えたと思う。現在、体に異常はないが、医者に白血球が多いと指摘され、被爆の影響が出ないか今も心配だ。
<私の願い>
今も入退院を繰り返し、苦しんでいる被爆者がたくさんいる。被爆者援護を現在の社会保障制度から国家補償に改め、被爆者が安心して暮らせる世の中にしてほしい。