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私の被爆ノート

全身血まみれ 胸詰まる

2007年1月11日 掲載
松本 トヨ(85) 松本 トヨさん(85) 1週間ほど茂木町で救護活動 =長崎市茂木町=

原爆が落とされた当時は頻繁に空襲警報が出されており、そのたびに家の近くにある「潮見崎観音」の防空壕(ごう)に避難していた。布団を持って壕に泊まることもあった。

あの日も空襲警報が出され、母と壕に避難した。警報が解除され外に出ると、辺りが「ピカーッ」と光った。熱さに両手で顔を覆った。周囲では木や竹が爆風でざわざわと揺れ、ごみが舞い上がっていた。近くで爆弾が落ちたと思った。

近くの寺には兵隊が何十人も住み込んでおり、何とか助けてくれるだろうと思った。寺に向かおうとしたとき、海を隔てた向こう岸の上空で、何かがふわふわと落下しているのが見えた。私が「爆弾だ」と言うと、近くにいた人は「爆発した爆弾の残骸(ざんがい)ですよ」と教えてくれた。

町内にある実家が心配で、寺には行かず実家に行くと、爆風で窓ガラスは割れ、神棚でも何でも落ちてしまっていた。

原爆が落ちて数日後、茂木地区の婦人会から、浦上地区などで被爆した負傷者の救護をするよう命じられた。戦火が激しくなり閉店していた町内の二つの料亭「観月」と「望洋荘」が臨時救護所となった。「観月」には軽度の負傷者、「望洋荘」には重度の負傷者が、次々にトラックで運び込まれてきた。到着してすぐに死んでしまう人もいた。医者は一人だけ、救護は私も含め十人ほど。人手が足りなかった。

「水をくれ」とうめく人、全身血まみれの人、腐った傷口から蛆虫(うじむし)がぼろぼろ落ちている人。「かわいそうに…」。その光景に胸が詰まった。手のやけどで、おにぎりさえ持てない人もいた。口元に持っていって食べさせたり、水を飲ませたりした。寝ていた人が翌朝いなくなることがよくあった。死んだのだ。遺体を焼くために対岸に向かう小舟の姿も頻繁に見られた。

一週間ほどの救護活動を終え、町内で親せきの土木作業の手伝いをしていた。治療を受けた負傷者の中には回復して帰郷する人もいた。トラックから「さようなら」と言って住民に手を振っていた。「今までいたんだな。良くなったんだな」。元気そうな姿を見てほっとした。
<私の願い>
空襲警報のたびに避難した。あんな怖い思いはもうこりごり。戦争が終わったときはほっとした。どうすれば戦争のない世界になるかは分からないが、日本には今のまま戦争のない平和な国であってほしい。

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