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私の被爆ノート

放置された腐乱死体

2006年12月28日 掲載
深堀 義成(76) 深堀 義成さん(76) 入市被爆 =長崎市平野町=

原爆投下の時は、瓊浦中(現長崎西高)三年。学徒動員で、竹の久保町の三菱長崎製鋼所第三工場で部品を作っていた。口にすると非難を浴びるため黙っていたが、常に「早く戦争が終わってほしい」と思っていた。空襲の回数が増えてくると、死の恐怖によってさらにその思いが強くなった。

一九四五年八月一日、空襲警報が鳴ったため友人たちと三人で工場から帰宅していた。途中で逃げ込んだ民家に爆弾が落ちて、がれきの下敷きになった。爆風で地面にたたきつけられたため顔がひどく腫れたが、必死でがれきをよけてはい出した。一緒に帰っていた友人の一人はその時亡くなったと後から聞いた。

この出来事がきっかけで、父の提案で、母と五人の弟や妹と一緒に三ツ山町にいた母方の祖父の知人宅に疎開することになった。その後、空襲がなかったために八月六日に一度実家に帰ったが、家に残っていた父に追い返された。

八月九日、荒れ地の開墾作業中に突然強烈な光を浴びた。ものすごい爆風が吹き、さまざまな色が混じった巨大なきのこ雲が立ち上っているのが見えた。その日は三ツ山町の方に、多くの人が絶え間なく避難してくる姿が見られた。原爆投下の前日から父も疎開先に泊まっていたので、私たち家族は全員助かった。

その後、実家の床下に埋めておいた家財道具を掘り出すために市中心部に戻り、惨状を目にした。死体が何体も放置されており、腐乱してズボンがはじけそうになるぐらい膨らんでいた。背中の皮がめくれてぶら下がったままぼうぜんと立ち尽くす人がいた。実家のあった場所はがれきの山だけが残っており、誰かわからない死体が一体放置されていた。その夜は近くの防空壕(ごう)に泊まった。

終戦後も飛行機の音に恐怖を感じることがあり、爆弾で吹き飛ばされる夢を何年も見続けた。しかし、九日に爆心地付近にいて亡くなった人の存在を考えると、家族全員が無事だったことに不思議な運命を感じる。
<私の願い>
核戦争が始まったら地球は壊滅するのではないか。戦争を起こさないためには、話し合いで解決することが大切だと思う。他人を愛する気持ちがあれば戦争は起こらないのではないか。

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