四人姉妹の下から二番目で当時四歳。長崎市中新町に祖父母、両親合わせて八人暮らしだった。
七月末か八月初め、米軍が長崎を爆撃した。自宅の床下や町内の防空壕(ごう)に逃げ込み、怖かった。生まれて初めて残っている記憶が、その時の恐怖だった。
その直後、祖父母と姉二人とともに、西有家(現在南島原市)の親せきの家に疎開することになった。母が白いおにぎりと卵焼きを持たせてくれたのに、爆撃の恐怖からか、「(疎開先に)早く行こう」と祖母をせかした。
「長崎が爆撃され、父がやられた」-。そんな知らせを受け、祖父と姉は長崎に戻った。家の中がめちゃくちゃで手に負えないからと、祖母も私を連れて長崎に帰った。
どこか分からないが、中心地近くを歩いて家に向かった。廃虚の町は静かだった。怖くて「ここどこ、ここどこ」と言いながら、祖母のもんぺを握りしめて歩いた。自宅だけ明かりがついていた。待っていた祖父が足を洗ってくれた。
父は淵中にあった三菱電機の工場で被爆。吹き飛ばされてけがを負い、水の浦の防空壕に運ばれたという。自宅にいた母は一歳九カ月の妹を連れて父を捜しに出たが、長崎駅から先に入ることができず、行ったり来たりしたらしい。父を見つけた母は「もう助からないかもしれない」と思ったという。
父は被爆後、右目を失明した。今でいう「原爆ぶらぶら病」だったのか、復職しても、朝、仕事に出ていくことができない日があった。
四五年九月、妹ののどがヒューヒュー鳴り出し、手術を受けたがかすれた声になった。学校に入っても入退院を繰り返し、小学校を卒業したのは十五歳だった。結核や白内障を患い、四十四歳で亡くなった。悲惨な最期だった。妹は何のために生まれてきたのか、苦しむだけの人生だったのか、と思う。
七七年から長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)で被爆者の相談を受けている。他人に話せない部分も含めて、すべて原爆だと思える。被爆から六十一年たった今春、一番上の姉が白血病にかかった。死ぬまで原爆の影が付きまとうのか-と、がくぜんとした。
<私の願い>
戦争が一番いけない。今でも世界で争いが起こっている。犠牲の多くは市民。そうなる前に小さな芽をつんでおかないと。過去を振り返ることは未来を見据えることになる。過去の戦争から学び、子どもたちに同じ思いを味わわせたくない。