八月十日朝、目が覚めると、どこにいるのか分からなかった。顔までわらのむしろが掛けてあり、辺りは静かだった。
やけどした腕や顔に、むしろの粗い表面が当たりチクチクと痛い。「あそこ、動いているぞ」。足音がして通り掛かった人がむしろをはぎ取った。私は、仮の遺体置き場に寝かされていた。
長崎師範学校の生徒で当時十五歳。長崎三菱兵器製作所住吉地下工場で動員学徒として魚雷部品の製造に従事した。軍人になるつもりだった。
八日が夜勤で、九日は午前七時半ごろ学生寮に戻り寝た。あの瞬間はバケツいっぱいの火の粉を頭からぶっかけられた感じで、飛び起きたのを覚えている。浴衣姿で二階の窓から飛び降り、防空壕(ごう)に逃げた。
頭には無数のガラス片が刺さり流血。貧血になった。寮は炎上し、同級生は柱やはりに挟まれたまま「助けてくれ」と絶叫しながら焼け死んだ。大通りは負傷者であふれ、腹をけがした学生は「腸が出てきた。助からん」と座り込んだ。
避難先の長与村立国民学校に着くと気分がもうろうとして、うめいたり大声を出した。医師が「安定剤を」と看護婦に指示したのは覚えているがその後の記憶はない。遺体置き場に並べられたところをみると、もう駄目だと思ったのだろう。
十一日に父が助けに来て、実家のある下波佐見村の病院に入院。やけどで全面がうみ、腕には何十匹とうじ虫がわいた。周りの人は「ひどい悪臭だ」と言った。午前中はそれほどでもないが、午後は病室に西日が差し蒸し暑かった。すると針金を巻き付け、締め付けるような痛みが襲った。
こらえ切れず、「すぐ先生を」と付き添いの姉をせき立てた。モルヒネ注射はよく効いたが、先生は「これ以上は駄目だ」と打たなくなった。
後は地獄の日々。泣き叫び、姉に「おい、付き添い、早く先生ば呼んでこい」と怒鳴った。姉は「もうじき良くなるから」と慰めたが、それが度重なると部屋からすぐ出て行った。そして、廊下にじっと座っていた。
玉音放送を聞いた日。悔しがる人もいたが、正直、ほっとした。私の中ではもう、戦争は九日で終わっていた。
(東彼)
<私の願い>
戦争をしないよう、話し合いができる環境を整えることが大事。殺し合いをしない世の中になればいい。