学徒動員で、一九四五年四月から国鉄長崎の通信区で働き始めた。あの日は長崎駅構内で、数日前に米軍の爆撃を受け、切れてしまった電話線の復旧作業をしていた。空襲警報には慣れ切っていたので、普段から米軍の飛行機が見えないと防空壕(ごう)に避難しなかった。復旧作業も急がなければならなかった。
工具を取りに駅構内の詰め所に行き、外に出た瞬間、原爆がさく裂した。空襲の際、目と耳を押さえて伏せるよう教わっていたのでそうした。爆発の衝撃で目が飛び出し鼓膜が破れるのを防ぐためだ。電柱に上って作業していた職員は、爆風に吹き飛ばされ死んだ。私は熱線で顔や手足をやけどした。わら草履を履いていたが、熱線を浴びた跡がいまも鼻緒の形で皮膚に残っている。
駅の向かいにある壕に避難すると「制服に火の付いとるよ」と言われ、慌てて上着を脱いだ。服は黒くくすぶっており、背中にやけどを負っていた。当時薬がなかったので、やけどした人で互いに食用油を塗り合った。薄暗い壕内には付近の住民ら二百人ほどが避難していた。「うーん」「痛い痛い」とうめき声が響いていた。
浦上から燃え広がった炎が付近に迫ったらしい。「蒸し焼きになるから避難しろ」という声が聞こえ、通信区の職員とともに職員の知り合いの農家が住んでいる立山町(当時)を目指した。
農家に到着し、少し冷静になると、家に帰りたくなった。一人で歩いて実家の長与村(当時)に向かった。水筒を持って出たが、のどがかわいていたのですぐに飲み干した。山手に避難してきた四、五十代の女性は、垂らした長い髪と顔面を血で真っ赤に染め「水をくれ」と近づいてきた。ほかの人も「一滴でいいから」と私にしがみついてきた。怖かったので水筒を置いて逃げた。
夜、実家に着くと「よう帰ってきたな」と母が迎えてくれた。二、三週間後、髪の毛が抜け始めた。背中のやけどがうみ、一年間うつぶせで寝なければならなかった。布団はおろか肌着も着ることができなかった。冬になると、叔父が竹を、私の体をすっぽり覆う形に編んでくれた。私は編んだ竹の中に横たわり、その上に布団を掛けていた。
<私の願い>
各国が互いをけん制し核兵器の開発を競うのはやめてほしい。友好な関係を築き核の恐怖がない平和な世界の実現を願う。それに伴い、世界中にある膨大な数の核兵器を安全に廃棄する方法も考えなければならない。