当時四歳だったが、あの日のことは子ども心に鮮明に残っている。朝から自宅できな粉を作る手伝いをしていた。兄の先生が家庭訪問に来たので私も手を休め、居間で母と姉を含め四人で話をした。
母が台所に行き昼食の準備をしていると、突如飛行機のごう音が響き、「かまどの煙が相手にとって目印になる」と思った母が火を消した。その瞬間だった。太陽が間近に迫ったかのような光が降り注ぎ、爆風とともに石や泥が家の中に入ってきた。私は反射的に伏せ、何が何だか分からない状態だった。母は「自分の家の煙のせいで爆弾を落とされた」と動揺していた。
一、二分ほどして、母に抱えられ家裏の防空壕(ごう)に連れて行かれた。爆心地からは金比羅山を挟んだ位置だったので、家族を含め近所にけが人はいなかった。
しばらくして、魚市場にいた父や瓊浦女学校に通っていた姉が防空壕に戻ってきた。「長崎駅前で人が死んでいた」「負傷した医学生が放射線を浴びて、長くせずに死ぬと言っていた」などと聞き、米国の兵隊は怖いと強く思った。その日は恐怖のあまり、外に出ることができなかった。
翌日、家に戻ったが屋根の一部がなくなっていることに気付いた。爆弾の威力のすごさを感じた。
被爆者手帳を持ちながら、自分が被爆者だとはあまり意識していなかった。だが、父が一九六〇年に肝臓がん、私と同じ場所で被爆した母が六八年に膵臓(すいぞう)がんでそれぞれ亡くなった。十二歳上の姉もがんで死去したことから、原爆の影響を意識するようになった。
私自身も定年退職後の健康診断で大腸がんが見つかった。原爆との関係ははっきりしないが、翌年には聴神経腫瘍(しゅよう)が分かり、非常にショックを受けた。
今年六月、長崎原爆被災者協議会(被災協)に加入。これから自分にできることを模索していきたい。
<私の願い>
原爆犠牲者のためにも、戦争は駄目と声を大にして言いたい。一発の原子爆弾で、被爆者への影響は一生残り、良いことは何もない。戦争なんて絶対嫌。青くて美しい地球はただ一つ。核のない世界を切に願っている。