鮫島 義隆
鮫島 義隆(78)
鮫島 義隆さん(78) 入市被爆 =ブラジル・サンパウロ州=

私の被爆ノート

「助けて、水をくれ」

2006年11月23日 掲載
鮫島 義隆
鮫島 義隆(78) 鮫島 義隆さん(78) 入市被爆 =ブラジル・サンパウロ州=

両親が移民したブラジルで生まれた。十一歳の時、父親の故郷、鹿児島県坊津に一人で帰された。その後、一九四四年十月、徴兵され、佐世保の針尾海兵団に入隊。四五年八月当時、周辺の海峡で機雷の爆破作業に就いていた。

長崎港内の三菱長崎造船所近くに海兵団の施設があった。一週間ごとの交代勤務。九日正午の交代に合わせ、長崎に戻る途中、船が故障、沖に流された。昼前、長崎の街の上に大きな雲が上ったのを船上から見た。

船が再び動きだしたので、施設近くの岸壁に接岸しようとしたが、周辺が燃えていた。接岸できずに針尾に戻ると、「明日、長崎に救護に行け」と命令された。

十日午前五時ごろ、衛生兵ら十数人とともにトラックに乗り込み、長崎に向かった。午前八時ごろ、市内に入ると、煙はくすぶっていたが、火は見えなかった。

憲兵が「死んだ人は扱うな。生きている人を助けろ。重傷者も放っておけ」と命じた。焼け跡には焦げた死体が転がっていたが、やけどやけがを負った子どもや女性を捜して助けた。顔や手、背中、腹などにやけどを負った人が多く、ガラスが刺さった人もいた。

毛布を敷いたトラックにけが人を持ち上げる時、やけどした部分を握ると皮がむけ、子どもは痛がった。二十人くらい乗せると、兵隊四人がトラックの後部に乗り、救護所へ運んだ。一日で十五回ほど、救護所との間を行き来した。

軍服の上に雨がっぱを着て、手袋と防毒マスクを着けて作業した。においはあまり感じなかった。とにかく暑かった。翌日もけが人を捜し回った。食べることも寝ることもできなかった。

「助けて、水をくれ」と叫ぶ声が耳から離れず、これまで長崎だけは来ることができなかった。今年十一月。終戦から六十一年ぶりに訪れた長崎は、美しく生まれ変わっていた。その街の姿を見て、少しほっとした。
<私の願い>
終戦後、鹿児島に帰った後、六〇年、ブラジルに戻った。二年前まで日本の被爆者援護策を知らず、自分が被爆者に該当するとも思っていなかった。海外には私と同じような人がいるはず。少しでも多くの在外被爆者を助けてほしい。

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