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私の被爆ノート

顔腫れ判別つかぬ同僚

2006年11月16日 掲載
早川 好雄(81) 早川 好雄さん(81) 爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器大橋工場で被爆 =大村市富の原1丁目=

十五歳で大村市今富町の実家を出て、長崎市の三菱長崎兵器製作所茂里町工場で働き始めたのが一九四〇年ごろ。魚雷のエンジン部品製造に携わっていた。大橋工場に異動した後、「あの日」を迎えた。

午前八時から勤務。いつものように浦上地区の下宿から徒歩で大橋工場へ向かった。朝早いうちに空襲警報が鳴り、「またB29(米爆撃機)が大村の軍需基地を狙いよるばい」と思った。警報は解除され、工場の同僚と「昼食は当たり前に食べられるね」と安心して話した矢先だった。

工場の窓から、長崎駅方面に溶接の火花のような青白い光が見えた。とっさに両手で目と耳をふさいで作業台の横に伏せた。屋根が崩れ、ガラスが砕け散る音が響き、一瞬何が起こったのか分からなかった。

目を開けると真っ暗。時間がたつにつれ夜が明けるように視界が開けた。崩れた屋根と作業台の合間に入り込んでいたため大したけがはなかった。「また爆弾にやられる」と思い、外にはい出て安全な場所を探そうとした。

しかし、工場の外は一面廃虚と化し、避難先になっていた近くの寺院も跡形もなかった。背中の皮膚がだらりと垂れ下がり、目を血走らせた負傷者が水を求めて浦上川へと向かう光景が見えた。大根の漬物のようなにおいが鼻を突き、気分が悪くなった。

壊れた工場周辺でしばらく右往左往した。錯乱状態で何をすべきか判断できなかった。夕方、下宿に戻ると大家の家族はみんな無事だった。その夜は周囲の畑にトタンを敷いて寝た。翌日、工場のがれきの下から同僚の遺体を運び出す作業を手伝ったが、顔がパンパンに腫れて誰か判別できなかった。

八月十四日、大村に戻り、唯一の身内だったおじ夫婦と再会を喜び合った。

今年二月、頭部に痛みを覚え、病院で受診すると、右目上の額部分に金属片が刺さっていると知らされた。被爆した際のものなのか。摘出すると失明するといわれ、そのままにしている。あれから六十一年。薄れかけていた原爆の記憶がまざまざとよみがえった。
<私の願い>
戦争を経験した者にとって、今の平和で裕福な時代は心地よい半面、戦争体験がだんだん失われていくことに怖さも感じる。今の平和をずっと持続するためにも、学校教育などを通じて子どもたちに戦争の悲惨さや平和の大切さをしっかり伝えてほしい。

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