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私の被爆ノート

自宅に母の姿なく

2006年11月9日 掲載
小柳 大勇(72) 小柳 大勇さん(72) 爆心地から約3キロの長崎市樺島町で被爆 =長崎市西北町=

当時、国民学校六年生。自宅は爆心地から約八百メートルの城山町にあった。その日、たまたま配給が遅れた学童用のパンを取りに、友達とその兄の中学生に連れられて、樺島町のパン工場まで出掛けた。

パンの焼き上がりを待っていると、工場の外で「爆弾!」と誰かが叫ぶ声が聞こえた。驚いて飛び出し、金比羅山の方角を見ると、太陽の三倍ほどの火の玉が、青白い光を放ち、回転しながら黄緑、だいだい色に変色し、急速に膨れ上がった。

「伏せろ」という声で、腹ばいになったと同時に、下からは地響き、頭上からは爆風が襲い、瓦や建具が飛び散る音が辺りを包み込んだ。浦上の方向を見ると、白い煙の上に真っ黒な煙が充満していた。

家族の安否が気になり、急いで電車通りを浦上駅の方向へ向かうと、次々とやけどを負った人たちが歩いてきた。八千代町付近ではガスタンクが傾き煙を上げていた。進むに従い火の勢いも増していった。

浦上駅からは、完全に火に阻まれ、仕方なく浦上川を進むことに。川は三分の一ほどに干上がり、川床には数え切れないほどの負傷者が横になっていた。「水をください…」という声を聞きながら、死体や負傷者の間を縫うように歩いた。

ようやくたどり着いた自宅は跡形もなく焼けていた。護国神社の東側のがけに掘られた防空壕(ごう)に避難したが、母の姿はなかった。夕方、三菱造船と三菱電機幸町工場に勤めていた父や姉、本原町の第一病院に入院していた兄が戻ってきた。

二日後の夕方、自宅から三百メートル離れた田んぼで、あぜを枕にして死んでいる母を、父が発見。姉が田んぼの水で丁寧に母の髪を整え、戸板に乗せ、父と兄、姉の四人で自宅まで運んだ。自分と兄は親類方へ疎開し、父と姉が火葬した。

後に分かったことだが、自宅で被爆した母は、一緒にいた三女の姉に助けられ、田んぼまで運ばれたという。その姉も、救援列車で諫早の病院に搬送されていたが、一週間後に死亡した。
<私の願い>
核兵器の恐ろしさは肉体に及ぼす影響が一過性ではないこと。当時生き残った人たちも、数日後、数年後に次々と亡くなった。傷が癒えても、肉体的、精神的な障害が残り、子や孫にも引き継がれることもある。核廃絶は人類共通の願いであってほしい。

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