長与国民学校(現長与小)高等科二年だった私は、学徒動員で同級生とともに長与村高田郷にあった軍需工場に通っていた。長崎市駒場町(現松山町)にあった軍需工場の分工場とのことで、敵機から見えないように谷間で操業。船舶関連の部品を作っていたようだった。
あの日は学校に集まり、午前九時ごろ工場に入った。工員から工具の説明を受けているときだった。突然「ドーン」という音がし、全員が床に伏せた。顔を上げると窓ガラスが割れ、窓際にいた工員たちは飛び散ったガラスで顔や腕などから血を流していた。中には痛みからか泣き叫ぶ男性の姿もあった。
何が起きたか分からないまま、工場の裏手にある防空壕(ごう)へ向かった。外に出ると朝は天気が良かったのに厚い雲に覆われ真っ暗。同級生の一人は「学校に爆弾が落ちたようだ」と話していた。
防空壕に一時間ほど身を潜めた後、自宅に戻った。障子などが吹き飛んでいたが、家族七人全員無事だった。二番目の兄は当時、国鉄に勤めており、朝から浦上駅に向かったが、上司から諫早に研修に行ってこいと言われ、難を免れた。兄が浦上駅に戻ると上司は亡くなっていたという。
自宅からは多良見町方面に続く山道が見えるのだが、着の身着のまま逃げていく人たちの列が続いていた。
長与国民学校と講堂(現町武道館)は臨時の救護所になり、皮膚が焼けただれ、血を流す人であふれていた。何とか救護所までたどり着いたものの、息を引き取る人も多く、講堂の裏手に大きな穴を掘り、亡くなった人を埋葬していた。
救護所が閉鎖されたとき、学生たちが床板の掃除をすることになった。血痕が床に染み付き、ふいてもふいても取れなかったことをいまだに覚えている。
(西彼中央)
<私の願い>
愚かな戦争故に何の罪もない人を原爆の犠牲者にしてしまった。当時の戦争責任者や国に対し憤りを隠しきれない。被爆者団体の役員を務めているが、二度と核兵器が使われることがないよう連携を深め、核廃絶を訴えていかなければならない。憲法九条改正の論議についても注意深く見守る必要がある。決して戦争を起こしてはならない。