長崎師範学校の二年生だった私は、長崎市の三菱長崎兵器製作所(現在の長崎大文教キャンパス周辺)に勤労学徒として通い、あの日も空雷(航空機用魚雷)の部品作りに汗を流していた。新聞で広島市に新型爆弾が落ちたのを知り、「どんな爆弾なのか知りたい」という気持ちと「次は長崎か」との不安を感じていた。
昼食を取りに寄宿舎に戻るため、工場の出入り口から足を踏みだそうとした瞬間、ものすごい閃光(せんこう)が走り、本能的に目と耳をふさいでその場にうずくまった。ごう音が続き、強烈な爆風で吹き飛ばされそうになった。恐る恐る目を開けると、工場の屋根が崩れ落ちていた。飛び散った窓ガラスの破片が腕に突き刺さっていた。辺りは暗く、「助けて」という悲鳴や親を呼ぶ叫び声が聞こえた。
近くの山にあった防空壕(ごう)に走った。手足から血を流し、皮膚がぼろ布のように垂れ下がった人が助けを求めていた。男女の区別も分からなかった。学校の寄宿舎から火の手が上がったので駆け付けると、多くの学生が倒壊した家屋の下敷きになっていた。
懸命に消火と救助を試みたが、全員を助けることはできないまま炎に包まれた。首にガラス片が刺さった友人は今にも息が絶えそうだった。彼らを担架に乗せ、道の尾駅との間を何度も往復した。
卒業後、故郷の南高千々石町(現在の雲仙市)で小学校教師になった。白血球が激減し、体調不良が続いた。教壇で被爆体験を語り、原爆を題材にした人形劇を子どもたちにさせた。平和な社会をつくる人材を育成することが、生き残った自分に与えられた使命と考えていた。
その後、長崎市議に転身し、市民総参加の平和運動を呼び掛けた。私の提唱で一九七二年から原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念行事が始まり、「市民大行進」は今も続いている。その後も県議、国会議員として、恒久平和の実現に向け全力を注いだ。
<私の願い>
北朝鮮が核実験を強行した。日本は周辺各国と協調し、武力に頼らず対話を通じて、暴挙をやめるよう北朝鮮を説得してほしい。平和を実現するには、多くの人が核の恐ろしさを理解し、協力しなければならない。